2012年1月4日水曜日

自分を潰そうとする人間との戦いの中で失った時間は大きい。

子供の頃は、自分を潰そうとする人間ばかりだった。
そういった人間に潰されないようにするにはどこまでも優秀な人間になるしかなかった。
能力を上げていく過程で、自分を攻撃してきた人間が強力な味方になってくれたこともあったし、
より上のステージに上がることで、
優秀で人間的にも優れた友人と多く深い付き合いをできるようになった。
そのことには感謝しなければならないと思う。
それでも、周りの人間が自分を押し潰した時の記憶は忘れられないし、少しでも自分が無能であったり、隙があれば社会は自分を容赦なく潰しに来るだろうという可能性を排除できない。多かれ少なから日々の日常の多くの時間を潰しに来る外的への対策の為の作戦を練ったり必要な能力を身につけるための訓練に割かれてしまう。
一方で自分の外の存在に対してそこまでの対抗意識を抱かずに自分の好きな事をやって来た人間が、いわゆるエリート層の中にもそれなりにいる。そういう人たちは、往々にして尊敬できるし、能力的にも無駄な戦いにエネルギーを消費しなかった分、高いものを持っている人々が多い。時には天才的な能力を持っている人間もいる。周りにそういう人がいることは素晴らしいことだし、自分もそういう人から色々な事を吸収でき、隣に並んで歩き、その先を歩こうと努力できる権利を持つことができるとしたら(たとえそういった人々に追いつくことが一生できないとしても)それはとても嬉しいことだと思われる。
自分が人間らしい日常を送る権利を得るための戦いの、多くの時間と能力を使ってしまった。
これからは日々を少しでも楽しく生きるために、自分の能力と時間を使っていきたい。
いつの日か自分の中に精神的余裕が出来て人の為に何かが出来る時が来るだろうか?その答えはまだ見えない。
たとえ、自分が持つ問題に答えが出なくても、それが、自分の能力を向上させ、自分の人生をよりよくするものであれば、もっと他人の為になることを積極的に関わっていくべきなのかもしれないな。
全ての準備が出来てから何かを始めるよりも、未完成でもどんどんアウトプットしていけばいいのは割といろいろな事に成り立つし、このことに関しても正しいのかもしれない。

知的マッチョな人々は浅いところでのたうちまわっているにすぎない。

どうしても、気合いや根性で知的能力を上げにかかっているような人々というものは、浅いところをループしているにすぎない。量はこなせてるのだが、いつまでたってもそれが、質に転化していかない。

2012年1月3日火曜日

十代の頃に何も生産性のあることが出来ないのはかなりの痛手だ。

中一で、高校物理と数ⅢCまでカバー(少なくとも内容を自分なりに理解)して、研究を始めるくらいじゃないと話にならない。もう十五歳くらいになったろどんどん発見してアウトプットしていくくらいじゃないとどうにもならん。
高校生や大学生くらいの年齢でで発表(論文投稿したり、研究施設で)就職できるようにしないと優れた才能はのびてこない。
先生について勉強するにしても、萎縮させられるような相手じゃだめだ。どんどん発想を出していく過程にブレーキをかけられると、大きなビハインドになっていくだろう。

2012年1月1日日曜日

自滅する人々、取り返しのつかないレベルまで自滅していった人々、自滅傾向が強い人物との決別

自滅していく人間は多い。
究極的な自滅として自殺があるが、
自殺する人数が多すぎる。極限状態に追い込まれて、自殺することに納得いくケースもあるが、むしろ、常人より多面的な尺度で測っても恵まれているタイプの人間が自殺するケースが多いように思う。(そういうケースに対してもある程度説得力のある理由をでっち上げることは可能だが、あまりにも馬鹿ばかしいのでここでは書かない。いずれ語る機会があるかもしれないが)
より現実的な問題として、世の中のほとんど全ての人々が多かれ少なかれ自滅傾向を持っているものである。
経験不足とあいまいな論理的思考力によって自滅傾向を肥大化させている人物がたまにいる。そういうタイプの人間と関わると、こちらも引きずられて自滅傾向を肥大化させかねないので、自滅傾向のある人物とは徹底的に距離を置き、自滅傾向の少なく、かつ生産的な仕事のできる人と関わるべきだろう。自滅傾向の強い人間と話すくらいなら、人とあわない方がいい。もし、他人が自滅傾向のある話をしようものなら、すぐにピシャリというが、それとなく、場合によっては露骨に話題を変えるという手段に訴えた方がいい。自滅傾向に引きずられることを防止するだけでなく、不快で迷惑だから自滅傾向を強化し、生産性を低下させる人間に対する強烈なメッセージになりうる。(そういった人間はたいていの場合、相手の状況に対して敏感で繊細な心を持っているので、それだけで二度と暗い話はする気が失せるだろう。)それでも重い話を続けるようなら、社会から排除されても仕方がないと思う。少なくとも社会から排除されて当然だという考えを持っていかないと、生産的であることを目的とする組織からは無価値な人間だと判断されるだろうし、なんの生産性のない集団からですら、「楽しくない」という理由で排除されうる
ネクラ人間は強制収容所に送るくらいの措置が必要だろう。

親戚と集まった時のことを話そうか

親戚との集まりで、珍しく積極的に発言するようにしてみた。
相手の求めてるものを読み切った上で、相手に対して心地よく入っていく範囲内でかつ自分の言いたいことを、的確に言葉を選び、絶妙なタイミングで話す。
いままで、コミュニケーションにおいてこのことを強く意識してきたが、ある程度の経験値を得て来たので、あまり意識を強く持たず、感覚に頼って面白くなるように心がけた。昔は、自然に話したら全くトンチンカンになったので、その反省から徹底して考えるという方針を取らざるを得なかったが、それは自分の人格において、あるいは人間の脳の仕組みにとって自然な発話極めて無理を強いるものであったので、その負担を下げ、少しずつ「何も考えずに」話すようにする。そう、自転車に乗りたての人間が補助輪をゆっくりとはずす感じだ。
考えずにしゃべっても失敗しないという経験に裏打ちされた強固な自信が必要だったが、 その自信からおおきく外れない程度に飛躍した話し方に加え、さらなる高いレベルの自信を獲得するための経験値を稼ぐために、許容される範囲であえて失敗に近い踏み込んだ発言をする、失敗できる範囲の見極め、という目的意識
これらのことを踏まえた上で親戚との会談に挑んでみた。
相手は、こちらの発言に関心してくれているように見えたが、相手は自分よりはるかに年上の人間だったことを考えると、果たしてどこまで本心からうなずいてくれているのかは、あるいは反発されていないかは、疑問の余地が残るものであったし、相手の反応を注意深く観察していたが、現時点での自分の読みとり能力では、否定的なニュアンスを見つけることが出来なかった。否定的な印象を持ちながらも否定的なニュアンスを相手に悟られないスキルは普段から意識的に身につけているので、その効果の大きさを常々認識しているし、もし相手が自分よりも数十年以上長い人生経験を通してそれをより高次なレベルまで身につけているのだとすれば、それは果てしなく恐ろしいことだと言わざるを得ない。自分の認識できる世界が主観的な意味で世界の全てであるとするならば、そこに観測不可能なブラックボックスが存在していて、そこに自ら働きかける必要に迫られる(今回の場合は実験であり、必ずしも必要に迫られたわけではない。いや、将来に対する漠然とした(ボンヤリ=ダザイ(1909~1948)のことはどうでもいいが)からそれに対処するための布石として必要だった。(こうは書いたけれども、一応、自分の被害妄想的な傾向による思い込みかもしれないという思考の余白を残すことで別の選択肢があったかもしれないと考えることで、あるいはこれから先に視野の狭さによる不合理な選択を取り、それが避けようがなく必然であったと思い込んでしまうことに対するけん制としておく。「詰将棋や数学とは違って現実空間に属する判断のほぼすべて(たぶん無限濃度)、は論理的に一意定まることはないので、厳密には避けられない判断というものは存在しない」ということを、わざわざこんなこと言うまでもないし、今までも繰り返し指摘してきたことを分かりながらも、あまりにもここら辺を勘違いしている人が多いように思うので、あえて指摘しておく))
ということはなかなか大きな恐怖である。

知識人を粉砕せよ!

このブログは知識人(その中でも頭でっかちで結果を出せない人間)に対する強い反発から書かれている部分も大きい。
このブログを書くにあたって知識人が好んで書きそうな文体を一種のパロディして書いているにすぎない。つまりは単なる遊び、あるいは文章というツールを通した演技力の向上のための試行錯誤という側面で書いている。
自分で疑問に思うことでもあえて断言する形で書いたり論理的に大きな誤謬を含んでいてもそれを認識しながらGOサインを出して書いていることがほとんどである。
これは、現実空間において相互作用を起こすための言葉を発する場合とは異なり特定の人物には読まれない、少なくとも読まれることによって自分が何かを得ることを目的にはしていないからだ。(純粋に書くことによって何かが得られると考えられるし、ネット空間上に放出することで、漠然と世界に開かれていることを意識することで文章の内容に一定の緊張感を出し、書くモチベーションを上げること。つまり程良いテンションを保つツールとしてブログがいいと判断したのである。あと、パソコンが壊れてもデーターが失われないという理由、アクセスのしやすさ(WORDを使うよりもブラウザの方が開くのが速く保存するのにかかる手間も少ない。これが文章を書くことの敷居を一気に引き下げる。))
()が長くなってしまったが、普段相手に情報を伝えることを目的として文章を書いたり、会話をしたりするときには、
このブログのように下手に難しい表現を使うことはせず、キャッチーで本質をつく短くて簡単な言葉を選んで、内容も相手のレベルに応じて引き下げる必要に迫られることも多い(というか人と会話する場合ほとんどそうである。(お分かりであろうが、知的能力の差ではなく単に興味が人によって異なるから自分の興味のある分野で相手に興味がない分野であれば会話のレベルが異なるのは当然でありそれは頭の良さとは関係ないだろうという突っ込みを想定しつつそれをあえて無視して文章を書いているという(それでもここで書く)というパラドキシカルな手法を用いることで自分が他の文章でも同じような事を考えて書いているということをここに明示しておく))。(「俗にいう小学生でもわかるように説明しろ」ということである)これは、単位時間に相手に伝わる情報量、質を最大化することが目的である。こちら側が話した量、言い回し、内容のレベルが大切なのではなく、相手にできるだけ多くを伝えるという結果を手に入れることが重要なのである。もっと主観的な立場(自分を中心としたモノの見方)たてば、相手が自分にとって最も都合のよい行動をしてくれるように誘導するために、ほとんどの場合自分の本当に伝えたい内容からは遥かにレベルを落として、あるいは、表現を当たり障りのない(なんの面白味もなく、全く知的能力の本質的に価値のある部分、(俗にいう「深さ」))言葉を選ぶことが重要だということになろう。
結論から言うと、普段はもっと分かりやすく親しみやすい言葉を発しているので、この文章は、筆者の本来のキャラとは異なるということをここに但しがき、というか「本作品は全てフィクションであり、現存する登場人物、団体とは一切関係ありません」的な、あるいは「良い子はマネをしないでね」的な、裏では責任逃れを意図しつつも読者に親切なように装った書き方をしてこのブログの隠れた注意書きという形で残しておこうとするものである。

バランス感覚の極限のとしての美しさ

美しさを追求することは今までは少なく、
むしろ、美的感学、芸術性に対しては強い反発を覚えていた。
今までは、努力と根性で到達可能なレベルの限界を超えるために、効率性、合理性、論理的思考力、結果にこだわることを徹底してきた。一通りそれらは習得できた(少なくとも習得のための方法論は出尽くした)と思われるので、頭打ちを避け次のステップに進むための新たなコンセプトが必要だろうと強く感じるようになった。そのための橋渡しとしてキーになるのはアウトプット至上主義の内容だろうと思う。合理性をを煮詰めた結果でてくるアウトプット至上主義について、アウトプットの量を増やすことに重点を置いていたところから、アウトプットの質に重点を置くところにシフトしていく。そこで「美しさ」がカギになるのではないかと考えられる。美しさを追求して得られる繊細なバランス感覚が、現実における言動も含めた広い意味でのアウトプットの質を一気に押し上げる原動力となるだろうと予想される。この予想を証明するための試行錯誤をこれから行っていく。