子供のころはろくに遊べずに勉強漬けにならざるをえなかった。
子供の頃に本当にやりたかったことはほとんど全て抑圧せざるをえなかった。
中学以降の人生で、抑圧したやりたかったこと以上のこととはほとんどで会えなかった。
いま自分の手持ちとしてあるやりたいことの種というのは、子供のころに本当にやりたかったことと比べると、まったくどうでもいいことにすぎない。
多少興味をもってやり始めてみても、すぐにどうでもよくなってしまう。はじめからそうなることは分かっていても、
ほかにそれ以上に興味が持てることがないわけだから、前に進むためにはやらざるをえない。
そうして、さまざまな対して興味はないが、興味の度合いとしては比較的マシなレベルにある事柄に次々と手をだしてはやっぱりくだらないことを再認識してやめる、というループを半永久的に繰り返したきた。
だが、ただ漫然と繰り返してきたわけではない。すこしでも、自分の人生においてステップとなりうるもの、本質的な能力向上につながりうるものを選んで、そのうえでループを回す速度を加速度的に上げてきた。そうして、ついに数学にたどりついた。さて、これからどうなるのでしょう。
2011年11月27日日曜日
言葉での物を考えすぎる人の為の論理的思考力の鍛え方
巷にあふれている本を読んだり、知識人的な人の話を聞いて気になることの一つに、言葉とそれが指し示す現実との著しい乖離である。
これは、現実に対する認識のイメージがあいまいなまま言葉が先に出てきている状態だと考えられる。
つまり、複雑で具体的な構造を持っている現実的な事柄に対して、それを抽象化して「こういうふうになっている」「俺はこう思う」といった意見を述べるときに具体的な構造を把握できていない状態で、こうに違いないという主張をしてしまうので、聞く側からすると、何かがちがう、どうしてか分からないけど気持ち悪いという違和感を持ってしまう。
これに対する対策はいたってシンプルである。
「これはこうだ」という主張が指し示している中身を細かく見ていくことである。そうすると、ある場合には主張は当てはまるが、当てはまらない場合もあることが分かってくる。
そうすると「これはこうだ」という発言から「こういう状況のときに限りこれはこうなる」といった、より現実の状況を正確に反映した発言になっていく。こうした、作業をを自分の持っている重要な主張や他人の主張に、徹底的にくり変えしていく。
そうすれば、自分の発することばはより現実を正確に反映したものとなり、他人の現実をうまく反映できていない主張に対して敏感になり、だまされることは少なくなっていくだろう。
要約すると
現実の構造をできるだけ正確に細かく把握すること。
把握した内容をもっとも分かりやすく的確に相手に伝わるように言葉にすること
広い意味での情報を他者伝えられる量と質を上げるには上記の方法が近道であり、それは、より密度の濃い時間を過ごすことにもつながる。
落ちこぼれた人間が這いあがるには、情報の圧縮をくりかえすしかない。常人が十年かけてやる情報のインプットとアウトプットの仮定を一年くらいに圧縮する。そうすることで、少なくとも人生の「情報」の部分の体感速度を徹底して上げてやる。そうすれば「情報」に関する部分だけば、他人に追いつくことが出来る。人生において重要な部分の多くはあつかう「情報」の量と質がキーになると考える。
これは、現実に対する認識のイメージがあいまいなまま言葉が先に出てきている状態だと考えられる。
つまり、複雑で具体的な構造を持っている現実的な事柄に対して、それを抽象化して「こういうふうになっている」「俺はこう思う」といった意見を述べるときに具体的な構造を把握できていない状態で、こうに違いないという主張をしてしまうので、聞く側からすると、何かがちがう、どうしてか分からないけど気持ち悪いという違和感を持ってしまう。
これに対する対策はいたってシンプルである。
「これはこうだ」という主張が指し示している中身を細かく見ていくことである。そうすると、ある場合には主張は当てはまるが、当てはまらない場合もあることが分かってくる。
そうすると「これはこうだ」という発言から「こういう状況のときに限りこれはこうなる」といった、より現実の状況を正確に反映した発言になっていく。こうした、作業をを自分の持っている重要な主張や他人の主張に、徹底的にくり変えしていく。
そうすれば、自分の発することばはより現実を正確に反映したものとなり、他人の現実をうまく反映できていない主張に対して敏感になり、だまされることは少なくなっていくだろう。
要約すると
現実の構造をできるだけ正確に細かく把握すること。
把握した内容をもっとも分かりやすく的確に相手に伝わるように言葉にすること
広い意味での情報を他者伝えられる量と質を上げるには上記の方法が近道であり、それは、より密度の濃い時間を過ごすことにもつながる。
落ちこぼれた人間が這いあがるには、情報の圧縮をくりかえすしかない。常人が十年かけてやる情報のインプットとアウトプットの仮定を一年くらいに圧縮する。そうすることで、少なくとも人生の「情報」の部分の体感速度を徹底して上げてやる。そうすれば「情報」に関する部分だけば、他人に追いつくことが出来る。人生において重要な部分の多くはあつかう「情報」の量と質がキーになると考える。
2011年11月26日土曜日
2011年11月24日木曜日
2011年11月22日火曜日
2011年11月14日月曜日
頭の良さとは結局スキルの一つにすぎなかった。
自分は頭が悪いことがコンプレックスだった。中には頭がいいといってくれる人間もいたが、自分では納得がいかなかった。自分の状況と、頭がいいというのにはどうも納得がいかなかった。周りを見てコイツ明らかに頭がいいという奴がいたし、漫画やアニメで見る、いわゆる頭のいいとうのとは違う気がした。見よう見まねで頭のよさそうな人々の考え方を盗み取り、数年かけてようやく同じような感覚を手に入れることが出来た。出来るようになってみると結局のところそれらはスキルの集積に過ぎなかった。論理力の習得と、それをあらゆることに的確に応用できる力を習得することが非常に大切であった。
2011年11月13日日曜日
重度中二病患者の末路
中学の頃、まわりには小賢しい連中が多かった。それなりに金持ちの家に生まれなにもしないくせに、頭がまわるので、偉そうなことばかり言うのだ。頑張っている他人の批判をするのは一人前のくせに本人はひたすらだらだらしているだけだ。社会のことが分かったような気になって、自分は頭がいいと思い込んで、サボり気味の生活を送る。
そういった連中が、後にあっさりと一流大学に受かっていくのは面白かった。そいつらがゆくゆくは社会の中枢に入っていく。金と頭脳は正義である。
P.S.もっと本気で潰しておけばよかった。
そういった連中が、後にあっさりと一流大学に受かっていくのは面白かった。そいつらがゆくゆくは社会の中枢に入っていく。金と頭脳は正義である。
P.S.もっと本気で潰しておけばよかった。
某球団会長の話
それなりに有名な球団の会長が球団を私物化しているというニュースがあった。人は誰しも子供の頃はおもちゃで遊ぶのが好きなもである。そして、それが手に入らないと親にダダをこねることもある。それを大人は注意し、子供は改めていく。だが、待てよ。強大な権力をもったものは、より子供っぽくふるまうものである。子供よりも、遥かに巨大なおもちゃを手に入れ、そのおもちゃに子供よりもはるかに強く執着する。
たぶん、それが許される状況を築き上げていくスキルと要領の良さと行動力を身につけることが階段を上るための基礎になるのだろう。
でっかいおもちゃで好きなだけ遊べる大人になりたいものである。
たぶん、それが許される状況を築き上げていくスキルと要領の良さと行動力を身につけることが階段を上るための基礎になるのだろう。
でっかいおもちゃで好きなだけ遊べる大人になりたいものである。
人を使うということ
昔、友人が「自分がやれないことはひとにやらせればいい」といっていた。最近その重要性を再認識した。
自分の能力を本質的なことのためにさけるようにするために、本質的でないことを人にやらさせる能力が極めて大事だということである。多くの場合、それが金によって人を使うということを通して可能になるのだが、金がない場合でもそれが可能になる。それは相手のモチベーションをピンポイントで刺激してやることだ。 タイミングとやり方をうまくすれば、ほとんど労力をかけずに他人を利用することが可能である。使う側としては、モチベーションを金以外の手段で操作しやすい人間を見極め、相手のつぼをよく知りそこを的確につくことである。そのために、「もしドラ」にも書かれているように、真摯に(あるいは真摯であることを上手に装って)相手の話を最後まで聞き、情報を引き出すことが大切である。
なお、私はいままでに、上記の方法で散々他人に利用されてきたし、話してはまずいことをしゃべらされてき(笑)
大いに反省せねばなるまい。
自分の能力を本質的なことのためにさけるようにするために、本質的でないことを人にやらさせる能力が極めて大事だということである。多くの場合、それが金によって人を使うということを通して可能になるのだが、金がない場合でもそれが可能になる。それは相手のモチベーションをピンポイントで刺激してやることだ。 タイミングとやり方をうまくすれば、ほとんど労力をかけずに他人を利用することが可能である。使う側としては、モチベーションを金以外の手段で操作しやすい人間を見極め、相手のつぼをよく知りそこを的確につくことである。そのために、「もしドラ」にも書かれているように、真摯に(あるいは真摯であることを上手に装って)相手の話を最後まで聞き、情報を引き出すことが大切である。
なお、私はいままでに、上記の方法で散々他人に利用されてきたし、話してはまずいことをしゃべらされてき(笑)
大いに反省せねばなるまい。
2011年11月12日土曜日
2011年11月6日日曜日
プロフィール原稿
おい、お前。そう、これを読んでるそこのお前だよ。お前は世界の敵だ。俺の圧倒的な論理力で全てお前の人生を全て論破してやる。俺はお前を必ず潰す。地の果てまで追いかけてでも絶対につぶしてやるぞ!!ハッハッハッ!!!
2011年11月5日土曜日
精神の安定の重要性(書きかけ)
ここ数年、感情的な人間と、冷静な人間とどちらが高いパフォーマンスを発揮できるかということが私の一つの大きな研究テーマであった。
結論から言うと圧倒的に冷静な人間が有利だと思われる。
感情の激しい
結論から言うと圧倒的に冷静な人間が有利だと思われる。
感情の激しい
0戦100勝>100戦100勝(書きかけ)
戦わずして勝つという言葉が昔からある。
昔のことわざにしては珍しく内容が(多くの昔からある名言というものは所詮は情報量が少なかった時代に陶汰されずに長い期間生きのこり、主に長期間存在していたという理由だけで現代における生存が許されている。これは多くの「伝統」とよばれるものに当てはまることなのだが、「伝統」についてはいずれページを新たにつくって徹底して叩く、、もとい論考していく。)
コストパフォーマンスが徹底して求められる現代社会に
おいて究極的に重要なキーワードになってくるとい
昔のことわざにしては珍しく内容が(多くの昔からある名言というものは所詮は情報量が少なかった時代に陶汰されずに長い期間生きのこり、主に長期間存在していたという理由だけで現代における生存が許されている。これは多くの「伝統」とよばれるものに当てはまることなのだが、「伝統」についてはいずれページを新たにつくって徹底して叩く、、もとい論考していく。)
コストパフォーマンスが徹底して求められる現代社会に
おいて究極的に重要なキーワードになってくるとい
無意識の愚民たち(書きかけ)
政治にだまされる民衆は本当に愚かか?
頭の悪さよりも、無関心からくる思考時間の短さ
による部分がおおきい。
5分でいいから真剣に耳を傾ければ、内容を完全に把握
できる事柄は多いが、情報量の多すぎる現代社会では、
すべてのことがらにその5分と労力をさく余裕はないというか物理的に不可能であろう。
頭の悪さよりも、無関心からくる思考時間の短さ
による部分がおおきい。
5分でいいから真剣に耳を傾ければ、内容を完全に把握
できる事柄は多いが、情報量の多すぎる現代社会では、
すべてのことがらにその5分と労力をさく余裕はないというか物理的に不可能であろう。
冷静さを保ちつつ、テンションを上げてるかのようにふるまい、周りの人間を操作していく能力(書きかけ)
最近空気を読むことの重要性が喧伝されているが、
ビジネス書を読みあさっていると、場の空気を読める能力の次のステップの段階として、場の空気を作る能力が求められるらしい。
日本社会においては空気を読む段階においては、集団の中で生きのこる前に、余計なことは言わない、つまり黙っていくことが重要な要素の一つなのだが、空気の作る段階においては、他者の嗜好、考えを読み切って、それを自分の立場向上に利用するために徹底して働きかけていく必要がある。自分と他者がどう思っているかを完全に読み切り、
ビジネス書を読みあさっていると、場の空気を読める能力の次のステップの段階として、場の空気を作る能力が求められるらしい。
日本社会においては空気を読む段階においては、集団の中で生きのこる前に、余計なことは言わない、つまり黙っていくことが重要な要素の一つなのだが、空気の作る段階においては、他者の嗜好、考えを読み切って、それを自分の立場向上に利用するために徹底して働きかけていく必要がある。自分と他者がどう思っているかを完全に読み切り、
成果主義の最終到達点としての数学
社会における多くの成果(地位、名誉、権威)は論理をもっとことごとく突き崩すことが出来る。それらは、ある種の未熟な思想、論理体系のみによって権威づけられているので、そんなものに価値はないよという論理展開が可能である。
だが、数学において出た成果というものは、論理によって突き崩すことは不可能である。これはある意味では絶対的な成果と言える。
つまり、成果を出すことを極端に求める現代社会においても数学はより高次の価値を持ちうる。
だが、数学において出た成果というものは、論理によって突き崩すことは不可能である。これはある意味では絶対的な成果と言える。
つまり、成果を出すことを極端に求める現代社会においても数学はより高次の価値を持ちうる。
三当四落
昔、三当四落という言葉があった。受験戦争が激しかった時代に、一流大学に入るには、睡眠時間を削ってでも勉強する必要があり、三時間睡眠なら合格できるが、四時間寝てしまうと、落ちてしまうという意味である。だが、私の印象では、それは全く的外れのように思う。長いこと、受験戦争の中に身を置いてきた立場から言わせてもらうと、八当五落くらいが現実的ではないだろうかと思う。
つまりそれなりに頭のいい人間が、全力で勉強するという環境のの中では、睡眠時間を十分に取るかどうかが明暗を分けてくる。睡眠時間を増やすと一見勉強時間が減るように思うが、実は記憶の定着率、起きている間の思考力に格段の差が出てくる。単位時間の効率でいえば、数倍以上の違いが出てくるかもしれない。そうなると、どちらが総合的にみてのびるかは明確だ。
ろくに勉強する人間がいない三流行なら、ガリ勉していても余裕でトップの成績がとれるだろうが、ハイレベル集団での競争になると論外な事になるのである。睡眠時間を削ってでも勉強して、奈落の底に落ちていった人間を多く見てきた。私の経験からいっても、睡眠時間を削れば全く成績は伸びず、睡眠時間をしっかりとれば、難なく学力が伸びっていったものである。そういう意味では人間のポテンシャルの限界ぎりぎりの結果が求められる環境下では、安易な根性主義や、精神主義の走ることは愚の骨頂でしかないことが、分かる。のんびりした性格の奴が案外ずばぬけて勉強が出来るということも少ないくないのだ。
つまりそれなりに頭のいい人間が、全力で勉強するという環境のの中では、睡眠時間を十分に取るかどうかが明暗を分けてくる。睡眠時間を増やすと一見勉強時間が減るように思うが、実は記憶の定着率、起きている間の思考力に格段の差が出てくる。単位時間の効率でいえば、数倍以上の違いが出てくるかもしれない。そうなると、どちらが総合的にみてのびるかは明確だ。
ろくに勉強する人間がいない三流行なら、ガリ勉していても余裕でトップの成績がとれるだろうが、ハイレベル集団での競争になると論外な事になるのである。睡眠時間を削ってでも勉強して、奈落の底に落ちていった人間を多く見てきた。私の経験からいっても、睡眠時間を削れば全く成績は伸びず、睡眠時間をしっかりとれば、難なく学力が伸びっていったものである。そういう意味では人間のポテンシャルの限界ぎりぎりの結果が求められる環境下では、安易な根性主義や、精神主義の走ることは愚の骨頂でしかないことが、分かる。のんびりした性格の奴が案外ずばぬけて勉強が出来るということも少ないくないのだ。
今日は退屈だった。朝早く起きても、刺激が少ないまま一日を終えると、寝るのがもったいなくて、夜更かしをしてしまいがちだ。昼間にでるとこにでるのはやっぱり有意義だ。学校に行くというシステムは優れている部分もある。だが、やはり学校が勉強をするのに最善のシステムだとは思えないし、基本的に家にこもってやるのが圧倒的にパフォーマンスが上がるはずだ。自分をコントロールするのが難しい。
一日に勉強する分野数を増やす。20分野くらい。思い切って語学やIT系などの全く関係のない分野の勉強もとりいれてみるとおもしろいかもしれない。
勉強は結構嫌いなので、勉強以外の持ちネタを増やしたい。オセロを撤退したら持ちネタが一気に減る。作曲もそこまで大きなネタとはなりえない。能力を上げてもあまり、先に開かれてないとう感覚があるのが一番の問題だろう。
ブログを書くことや、ネットでオセロをやることは多少のアウトプットになっている。
今後やれることは、ニコ動のアップや、プログラミングコンテストか。
一日に勉強する分野数を増やす。20分野くらい。思い切って語学やIT系などの全く関係のない分野の勉強もとりいれてみるとおもしろいかもしれない。
勉強は結構嫌いなので、勉強以外の持ちネタを増やしたい。オセロを撤退したら持ちネタが一気に減る。作曲もそこまで大きなネタとはなりえない。能力を上げてもあまり、先に開かれてないとう感覚があるのが一番の問題だろう。
ブログを書くことや、ネットでオセロをやることは多少のアウトプットになっている。
今後やれることは、ニコ動のアップや、プログラミングコンテストか。
2011年11月3日木曜日
完璧な論理的思考力を身につける
人生のできるだけ早い段階で100パーセントの論理的思考力を身につける。これは絶対的に必要。
頭のいいとされている人間や、社会的に地位のある人間ですら、大半はできていない。
当ブログでは論理もへったくれもない内容が書かれているが、それは大きな問題ではない。大切なのは必(・)要(・)と(・)あ(・)ら(・)ば(・)百パーセントの論理的思考力を発揮できることである。この能力は一定のトレーニングを積めば、
身につくし、一度見につけば半永久的に 使えるので是非見につけたい。
実は、論理を使う上で重要な点がある。つまり、論理的思考力が使える場面と使えない場面があるということである。
1 論理力を完璧に身につける。
2 リアルの生活で、論理が使えるか使えないかを一瞬で判断し、論理が使えるところでは徹底して使い、使えない場面では、論理を使うことを危険と判断し、その他の感性や直観に頼る、発言を差し控える、決めつけないなどの柔軟な措置をとる必要がある。
結論として重要なのは、数学や物理などの一部を除く
ほぼすべての学問、主張、思想、発言、議論において、
論理が使えない部分を含んでいることである。つまり、「ほぼすべての思想は百パーセント正しいとは言えない」
ということがいえる。さらに言うと
「ほぼすべての思想は反論可能である」
実生活に照らして言うと
「百パーセント正しいとは言えない思想に基づいて行動するのは大きなリスクをはらんでいる。」
現実生活に根差した頃がらというのは、多くのパラメーターを含んでおり、論理で結論を出すことが不可能のなだ。
論理を使えない領域で論理を使おうとする発言は
眉につばを付けて聴く必要がある。
これを的確に利用するば、人の話にだまされる(一見論理的に正しいと思われる主張を実際に正しいと判断してそれに基づいて行動し、大きな不利益を被ること)
はほぼなくなるだろう。
1 論理力を身につける
2 論理が使える場面使えない場面を判断する
普通は1すらできないが、2までできないと、あやしげな
宗教にはしったりする。某新興宗教に走ったインテリ君たちは、1はほぼ身についていたが、2が完全に欠落していたということなのだろう。
以上の内容は、読み書きそろばんのレベルで根本的な
スキルであるといえる。公教育において、すべての人間に
身につけさせる必要があるが、学校の教師はおろか公教育をつかさどるところの役人共も含めて、身についていないものが多いのが現状であろう。
これは、個人的に学校教育とはできるだけ関わりたくない理由の一つでもある。
論理とはつまるところ、選択肢である。
余談だが、まどか☆マギカに出てくる思想は、
選択枝の見落としによる思い込みがあり、
登場人物達の発言や行動は果てしなく愚かである。
まさしくホント、バカである。
さらに余談だが、現実生活において、選択肢の見落とし、
集合論が身についていないことによる思い込みの多いこと多いこと。。
論理的思考に使うためのツールは以下の通り
樹形図
集合論(高校で習う論理の→と集合の包含関係)
微分方程式の初期条件と時間発展
有限と無限の概念
を押さえておけばよい。
あとは、いつでもどこでも、呼吸をするかのように自然に
使えるようになることだ。数学をある程度やれば自然に身につく場合が多いが、数学をそんなに勉強しなくても
い以上の四点だけマスターして実生活になじませていけば十分だと思われる。理系にすすまないのであれば、
それ以上に数学をやるひつようがあるのだろうか(logとかの計算を教える必要があるだろうか?)
ざっくり言えば、高校までの(できれば大学初年度くらいまでの)数学と物理でならったことを日常に的確に応用できれば、論理的思考力の運用は完璧になる。
過剰に数学をやる必要はないし、学んだことをうまく応用できるようになれればよろしい。
頭のいいとされている人間や、社会的に地位のある人間ですら、大半はできていない。
当ブログでは論理もへったくれもない内容が書かれているが、それは大きな問題ではない。大切なのは必(・)要(・)と(・)あ(・)ら(・)ば(・)百パーセントの論理的思考力を発揮できることである。この能力は一定のトレーニングを積めば、
身につくし、一度見につけば半永久的に 使えるので是非見につけたい。
実は、論理を使う上で重要な点がある。つまり、論理的思考力が使える場面と使えない場面があるということである。
1 論理力を完璧に身につける。
2 リアルの生活で、論理が使えるか使えないかを一瞬で判断し、論理が使えるところでは徹底して使い、使えない場面では、論理を使うことを危険と判断し、その他の感性や直観に頼る、発言を差し控える、決めつけないなどの柔軟な措置をとる必要がある。
結論として重要なのは、数学や物理などの一部を除く
ほぼすべての学問、主張、思想、発言、議論において、
論理が使えない部分を含んでいることである。つまり、「ほぼすべての思想は百パーセント正しいとは言えない」
ということがいえる。さらに言うと
「ほぼすべての思想は反論可能である」
実生活に照らして言うと
「百パーセント正しいとは言えない思想に基づいて行動するのは大きなリスクをはらんでいる。」
現実生活に根差した頃がらというのは、多くのパラメーターを含んでおり、論理で結論を出すことが不可能のなだ。
論理を使えない領域で論理を使おうとする発言は
眉につばを付けて聴く必要がある。
これを的確に利用するば、人の話にだまされる(一見論理的に正しいと思われる主張を実際に正しいと判断してそれに基づいて行動し、大きな不利益を被ること)
はほぼなくなるだろう。
1 論理力を身につける
2 論理が使える場面使えない場面を判断する
普通は1すらできないが、2までできないと、あやしげな
宗教にはしったりする。某新興宗教に走ったインテリ君たちは、1はほぼ身についていたが、2が完全に欠落していたということなのだろう。
以上の内容は、読み書きそろばんのレベルで根本的な
スキルであるといえる。公教育において、すべての人間に
身につけさせる必要があるが、学校の教師はおろか公教育をつかさどるところの役人共も含めて、身についていないものが多いのが現状であろう。
これは、個人的に学校教育とはできるだけ関わりたくない理由の一つでもある。
論理とはつまるところ、選択肢である。
余談だが、まどか☆マギカに出てくる思想は、
選択枝の見落としによる思い込みがあり、
登場人物達の発言や行動は果てしなく愚かである。
まさしくホント、バカである。
さらに余談だが、現実生活において、選択肢の見落とし、
集合論が身についていないことによる思い込みの多いこと多いこと。。
論理的思考に使うためのツールは以下の通り
樹形図
集合論(高校で習う論理の→と集合の包含関係)
微分方程式の初期条件と時間発展
有限と無限の概念
を押さえておけばよい。
あとは、いつでもどこでも、呼吸をするかのように自然に
使えるようになることだ。数学をある程度やれば自然に身につく場合が多いが、数学をそんなに勉強しなくても
い以上の四点だけマスターして実生活になじませていけば十分だと思われる。理系にすすまないのであれば、
それ以上に数学をやるひつようがあるのだろうか(logとかの計算を教える必要があるだろうか?)
ざっくり言えば、高校までの(できれば大学初年度くらいまでの)数学と物理でならったことを日常に的確に応用できれば、論理的思考力の運用は完璧になる。
過剰に数学をやる必要はないし、学んだことをうまく応用できるようになれればよろしい。
一人でいる時間の質を上げる
一人だと何もできなくなってしまう人間がいる。それは論外だ。
よりよい人生を建設するための第一歩は、孤独になっても大丈夫だという絶対的な自信を作ること。これが究極のセーフティーネットになるだろう。一人になっても大丈夫感をもっていると、他者に対して余裕を持って接することが出来るようになる。そうすることで他人に振り回されることも少なくなり、他人に認められようと必死になって醜態をさらすリスクが減るだろう。かえって、人間関係が円滑になるだろう。すくなくとも自分にとって必要な人間とそうでない人間が分かるようになる。
そうすることで、一人でいる時間と、他人といる時間の密度を両方とも上げることが可能になる。
よりよい人生を建設するための第一歩は、孤独になっても大丈夫だという絶対的な自信を作ること。これが究極のセーフティーネットになるだろう。一人になっても大丈夫感をもっていると、他者に対して余裕を持って接することが出来るようになる。そうすることで他人に振り回されることも少なくなり、他人に認められようと必死になって醜態をさらすリスクが減るだろう。かえって、人間関係が円滑になるだろう。すくなくとも自分にとって必要な人間とそうでない人間が分かるようになる。
そうすることで、一人でいる時間と、他人といる時間の密度を両方とも上げることが可能になる。
つまりは、自分の長所と欠点を百パーセント利用できるセルフマネージメント力である。
まずは、自分の長所と欠点を百パーセント利用できるセルフマネージメント力である。これが第一段階。
そして、他者を自分の為に百パーセント利用できるようになるこれが、第二段階。
学校があっての自分、会社があっての自分ではなく、
自分なっての学校、自分あっての会社、自分なっての他者である。自分のしあわせの為にいかに自分以外の存在を利用するか。良い人生とはそれを最適化することである。
そして、他者を自分の為に百パーセント利用できるようになるこれが、第二段階。
学校があっての自分、会社があっての自分ではなく、
自分なっての学校、自分あっての会社、自分なっての他者である。自分のしあわせの為にいかに自分以外の存在を利用するか。良い人生とはそれを最適化することである。
ざっと自分の人生を振り返ってみる
人と会ったあと、極端にテンションが上がったり、下がったりする。毎日人とあってると正直全く仕事にならない。
一週間に一度人と会うくらいがバランスとしてはちょうどいい。
子供の頃と、十代の頃に極端に遊ぶことを制限したの歪みがいろんなところに出てきてる。他の人が空気を吸うように当たり前にできることが、必死に頑張っても全くできないという状況が生じるので、社会生活がなりたたない。
最初の違和感は、中学受験直後。受験も終わったし、さあ遊ぶぞという段階になったのだが、学校の同級生と全く、ノリがあわない。こちらとしては、小四以降できなかったことをめいいっぱいやるぞという状況にも関わらず、他の人間は二年間遊んだ上で次の段階に進んでいるわけだから全くどうにもならない。中学に入って周りの精神年齢がガクっと下がったので、中一の頃は割と楽しく過ごせた。だが、中二になってから周りと話すことに困難を感じるようになった。仕方なく、徹底して勉強をするようにした。休み時間とかでも勉強をしていれば人と話さなくてもいいので気楽だった。もちろん勉強をしなきゃという強迫観念的なものもあった。進学校だったのが幸いし、それでもおおきく浮くことはなく、がり勉仲間のようなところにうまく入り込んで、学校ないでの生き残りを図ることが出来た。高校に入って、勉強の中に閉じこもる傾向がさらに過激化。塾に自ら志願しいくようなり、放課後はその予習に当てるようになった。もちろん塾仲間が大量にいて、放課後遊ぶことも多かったので、孤独だったわけではないが、大いに不満があった。だが、できるだけそこに意識を向けにようにしていた。いったん立ち止まってしまえば、二度と前に進めなくなるだろうという予感があったからだ。そして、それは後におおむねあたることになる。
ともかく、高校三年間は時間さえあれば勉強するという姿勢を取るようにした。高校一年の時に一週間期限でビデオを借りたが、 見る暇がなかった。勉強で忙しく、二時間の時間も作れなかったのは今から思うと信じがたい。暇な時間を作らないために勉強するという感じだったので、ほとんど成果は上がらなかった。高二の秋くらいになってようやくかみ合い始める。物理と数学を本格的にやり始めたのが大きい。そして、徹底して深く理解するという方針をとったのが大正解で、自分の実感としておおきく学力が伸びた。このあとの二年間で強靭な思考力の基礎がつくられたように思う。大学の物理や数学の本にも手を出し、大学受験が終わることには自分でも驚くほど伸びていた。だが、小6の夏から高二の夏くらいまで形だけの勉強をしていただけで、ほとんど頭がよくならず、むしろ悪くなっていたので、非常に大きな焦りを感じていた。それをなんとかとりかえそうと、受験が終わったその日から、一日十時間くらい物理と数学をやるという生活が始まる。
その生活を大学一回生のゴールデンウィーク前まで三カ月くらいつづく。この間、ライトノベルと漫画を読むようになった。漫画や小説に病的にはまる性質があり、漫画をよむと漫画のことしか考えられなくなり、生活が崩壊し、学力が崩壊するのは明らかだったので、高校二年、三年の間。徹底した禁欲主義をとる、そレが大当たりしたのか、ともかく大学受験はうまくいった。ところが、大学に受かって勉強が順調に進めば進むほど、一つの壁にぶつかって来た。起きている時間をほぼ完璧に運用し、最大限学力をのばしつづける生活を二年近やっていた状態が続くと、過去における取りこぼしが気になるようになってきた。つまり小6のころから高二の夏までの間、もっと勉強しておけばよかった。という考えが頭の中をもたげてくるようになった。最大限のスピードで一日十時間勉強するという生活を一日も休まずに行っていたので、さらなるのびしろを過去に求めざるを得なくなっていた。今これ以上のばすほうほうが存在しないが、もっと伸ばす必要性を感じていた。こんな状態が続くはずもなく、勉強が出来なくなった後、リアルの生活が完全に崩壊。観念的な世界にさ迷うにようになった。
三回生になって化学に進んだのは、とにかく手を動かして
普段の生活に現実感を取り戻したかったというのはあった。だが、 化学はあまりにもつまらなく、しんどいだけだったので、すぐにいかなくなりより、リアルを放棄する傾向が加速した。このころちょうどニコニコ動画のアカウントを取得。他に居場所を感じることがなかったのもあって、一日八時間くらい動画を見る生活を一年半くらい続けることになった。途中、何とか手を打とうとして、人と会うのに必死になったりインターンにいったり、塾講をしたりした。
結果として、コミュニケーションの試行錯誤はかなりできたが、精神的には極めて不安定な状態になり、勉強をほとんどできなくなった。毎日のように自殺することを考えていたようにおもう。人と会った後の脱力感が半端なく、人とあった日は、徹夜するか十五時間ねるかという極端なことになっていたので、学校にまともに行けない状態がつづいた。 たぶん人と会うことから徹底していれば、この状態は避けられた。そして、それが可能なのは数学系だったと思われる。つまり、数学系の人間以外と高校の時の友人の一部以外とはあわずに、数学とニコ動だけの生活をしていればよかった。その方が精神的にも健康で能力が伸び、その後の人生もうまくいっただろう。このころが決定的な分岐点となる。そのご四回生と院生生活で、少しづつ精神は安定化、視野も広がり、頭も働くようになり、できることが増えてきたが、今度は周りと決定的に乖離するということが起きてきた。自分がもがいている間にもまわりの人間は次のステージへと進んでしまう。ほとんど話の会う人間がいなくなってしまった。昔の反省から、人と無理に会おうとはせずに、一人でいることを徹底して肯定的にとらえざるを得なくなった。一人でできる趣味を極限まで追求することで精神の安定と、人生の幸福をもたらそうとすることにした。ニートになることを覚悟で大学院を放棄、数学をやることにした。数学は一人でひきこもっていることがメリットに働く面が大きいので、あまり自分をおおきく変えずに次のステップに進めるだろうもくろみがあった。なんとか一定の精神の安定を勝ちえたのは親の経済力によるところと自分自身が最低限の頭脳の明晰さを備えていたのが大きい。どちらかがかけていたら、一生鬱屈したまま人生がおわっただろうし、もうとっくに自殺していたかもしれない。経済力信仰と地頭的な意味での能力至上主義に対する信奉は今後さらに過激化するのである。
ひとことでいると自らの金と頭脳は命と人生を救うのである。 今後はさらに能力を伸ばし、効率的に時間の密度を上げようとする行動がもっと極端になっていくだろう。いままでの取りこぼしを全てとりかえそうとするくらいの過激な生き方をしても自我を保てるという確かな自信が今の自分にはある。
一週間に一度人と会うくらいがバランスとしてはちょうどいい。
子供の頃と、十代の頃に極端に遊ぶことを制限したの歪みがいろんなところに出てきてる。他の人が空気を吸うように当たり前にできることが、必死に頑張っても全くできないという状況が生じるので、社会生活がなりたたない。
最初の違和感は、中学受験直後。受験も終わったし、さあ遊ぶぞという段階になったのだが、学校の同級生と全く、ノリがあわない。こちらとしては、小四以降できなかったことをめいいっぱいやるぞという状況にも関わらず、他の人間は二年間遊んだ上で次の段階に進んでいるわけだから全くどうにもならない。中学に入って周りの精神年齢がガクっと下がったので、中一の頃は割と楽しく過ごせた。だが、中二になってから周りと話すことに困難を感じるようになった。仕方なく、徹底して勉強をするようにした。休み時間とかでも勉強をしていれば人と話さなくてもいいので気楽だった。もちろん勉強をしなきゃという強迫観念的なものもあった。進学校だったのが幸いし、それでもおおきく浮くことはなく、がり勉仲間のようなところにうまく入り込んで、学校ないでの生き残りを図ることが出来た。高校に入って、勉強の中に閉じこもる傾向がさらに過激化。塾に自ら志願しいくようなり、放課後はその予習に当てるようになった。もちろん塾仲間が大量にいて、放課後遊ぶことも多かったので、孤独だったわけではないが、大いに不満があった。だが、できるだけそこに意識を向けにようにしていた。いったん立ち止まってしまえば、二度と前に進めなくなるだろうという予感があったからだ。そして、それは後におおむねあたることになる。
ともかく、高校三年間は時間さえあれば勉強するという姿勢を取るようにした。高校一年の時に一週間期限でビデオを借りたが、 見る暇がなかった。勉強で忙しく、二時間の時間も作れなかったのは今から思うと信じがたい。暇な時間を作らないために勉強するという感じだったので、ほとんど成果は上がらなかった。高二の秋くらいになってようやくかみ合い始める。物理と数学を本格的にやり始めたのが大きい。そして、徹底して深く理解するという方針をとったのが大正解で、自分の実感としておおきく学力が伸びた。このあとの二年間で強靭な思考力の基礎がつくられたように思う。大学の物理や数学の本にも手を出し、大学受験が終わることには自分でも驚くほど伸びていた。だが、小6の夏から高二の夏くらいまで形だけの勉強をしていただけで、ほとんど頭がよくならず、むしろ悪くなっていたので、非常に大きな焦りを感じていた。それをなんとかとりかえそうと、受験が終わったその日から、一日十時間くらい物理と数学をやるという生活が始まる。
その生活を大学一回生のゴールデンウィーク前まで三カ月くらいつづく。この間、ライトノベルと漫画を読むようになった。漫画や小説に病的にはまる性質があり、漫画をよむと漫画のことしか考えられなくなり、生活が崩壊し、学力が崩壊するのは明らかだったので、高校二年、三年の間。徹底した禁欲主義をとる、そレが大当たりしたのか、ともかく大学受験はうまくいった。ところが、大学に受かって勉強が順調に進めば進むほど、一つの壁にぶつかって来た。起きている時間をほぼ完璧に運用し、最大限学力をのばしつづける生活を二年近やっていた状態が続くと、過去における取りこぼしが気になるようになってきた。つまり小6のころから高二の夏までの間、もっと勉強しておけばよかった。という考えが頭の中をもたげてくるようになった。最大限のスピードで一日十時間勉強するという生活を一日も休まずに行っていたので、さらなるのびしろを過去に求めざるを得なくなっていた。今これ以上のばすほうほうが存在しないが、もっと伸ばす必要性を感じていた。こんな状態が続くはずもなく、勉強が出来なくなった後、リアルの生活が完全に崩壊。観念的な世界にさ迷うにようになった。
三回生になって化学に進んだのは、とにかく手を動かして
普段の生活に現実感を取り戻したかったというのはあった。だが、 化学はあまりにもつまらなく、しんどいだけだったので、すぐにいかなくなりより、リアルを放棄する傾向が加速した。このころちょうどニコニコ動画のアカウントを取得。他に居場所を感じることがなかったのもあって、一日八時間くらい動画を見る生活を一年半くらい続けることになった。途中、何とか手を打とうとして、人と会うのに必死になったりインターンにいったり、塾講をしたりした。
結果として、コミュニケーションの試行錯誤はかなりできたが、精神的には極めて不安定な状態になり、勉強をほとんどできなくなった。毎日のように自殺することを考えていたようにおもう。人と会った後の脱力感が半端なく、人とあった日は、徹夜するか十五時間ねるかという極端なことになっていたので、学校にまともに行けない状態がつづいた。 たぶん人と会うことから徹底していれば、この状態は避けられた。そして、それが可能なのは数学系だったと思われる。つまり、数学系の人間以外と高校の時の友人の一部以外とはあわずに、数学とニコ動だけの生活をしていればよかった。その方が精神的にも健康で能力が伸び、その後の人生もうまくいっただろう。このころが決定的な分岐点となる。そのご四回生と院生生活で、少しづつ精神は安定化、視野も広がり、頭も働くようになり、できることが増えてきたが、今度は周りと決定的に乖離するということが起きてきた。自分がもがいている間にもまわりの人間は次のステージへと進んでしまう。ほとんど話の会う人間がいなくなってしまった。昔の反省から、人と無理に会おうとはせずに、一人でいることを徹底して肯定的にとらえざるを得なくなった。一人でできる趣味を極限まで追求することで精神の安定と、人生の幸福をもたらそうとすることにした。ニートになることを覚悟で大学院を放棄、数学をやることにした。数学は一人でひきこもっていることがメリットに働く面が大きいので、あまり自分をおおきく変えずに次のステップに進めるだろうもくろみがあった。なんとか一定の精神の安定を勝ちえたのは親の経済力によるところと自分自身が最低限の頭脳の明晰さを備えていたのが大きい。どちらかがかけていたら、一生鬱屈したまま人生がおわっただろうし、もうとっくに自殺していたかもしれない。経済力信仰と地頭的な意味での能力至上主義に対する信奉は今後さらに過激化するのである。
ひとことでいると自らの金と頭脳は命と人生を救うのである。 今後はさらに能力を伸ばし、効率的に時間の密度を上げようとする行動がもっと極端になっていくだろう。いままでの取りこぼしを全てとりかえそうとするくらいの過激な生き方をしても自我を保てるという確かな自信が今の自分にはある。
反論することの重要性
人と会うときに、どうしてもだまって聞くがわに廻りがちだ。
あとあとこう言っておけばよかったとか、こういえば論破っできるのではないか?とか考えてしまうので、徹底してストレートにその場で発言するようにしたい。日本社会では失言が許されない風土があるので、ミスをせずにいいたいことを的確に言えるのにはかなりの訓練がいるように思う。あまり人と会うチャンスが少ないので、親しい友人とのコミュ二ケーションの場で、そういった基礎力を徹底して鍛えたい。
あとあとこう言っておけばよかったとか、こういえば論破っできるのではないか?とか考えてしまうので、徹底してストレートにその場で発言するようにしたい。日本社会では失言が許されない風土があるので、ミスをせずにいいたいことを的確に言えるのにはかなりの訓練がいるように思う。あまり人と会うチャンスが少ないので、親しい友人とのコミュ二ケーションの場で、そういった基礎力を徹底して鍛えたい。
登録:
投稿 (Atom)