巷にあふれている本を読んだり、知識人的な人の話を聞いて気になることの一つに、言葉とそれが指し示す現実との著しい乖離である。
これは、現実に対する認識のイメージがあいまいなまま言葉が先に出てきている状態だと考えられる。
つまり、複雑で具体的な構造を持っている現実的な事柄に対して、それを抽象化して「こういうふうになっている」「俺はこう思う」といった意見を述べるときに具体的な構造を把握できていない状態で、こうに違いないという主張をしてしまうので、聞く側からすると、何かがちがう、どうしてか分からないけど気持ち悪いという違和感を持ってしまう。
これに対する対策はいたってシンプルである。
「これはこうだ」という主張が指し示している中身を細かく見ていくことである。そうすると、ある場合には主張は当てはまるが、当てはまらない場合もあることが分かってくる。
そうすると「これはこうだ」という発言から「こういう状況のときに限りこれはこうなる」といった、より現実の状況を正確に反映した発言になっていく。こうした、作業をを自分の持っている重要な主張や他人の主張に、徹底的にくり変えしていく。
そうすれば、自分の発することばはより現実を正確に反映したものとなり、他人の現実をうまく反映できていない主張に対して敏感になり、だまされることは少なくなっていくだろう。
要約すると
現実の構造をできるだけ正確に細かく把握すること。
把握した内容をもっとも分かりやすく的確に相手に伝わるように言葉にすること
広い意味での情報を他者伝えられる量と質を上げるには上記の方法が近道であり、それは、より密度の濃い時間を過ごすことにもつながる。
落ちこぼれた人間が這いあがるには、情報の圧縮をくりかえすしかない。常人が十年かけてやる情報のインプットとアウトプットの仮定を一年くらいに圧縮する。そうすることで、少なくとも人生の「情報」の部分の体感速度を徹底して上げてやる。そうすれば「情報」に関する部分だけば、他人に追いつくことが出来る。人生において重要な部分の多くはあつかう「情報」の量と質がキーになると考える。
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