2011年12月31日土曜日

神童の没落、周りから求められるものの変化

芸能人で子役として大成功したものの、
数年で干され、一般人になるならいいが、
没落を続けどうにもならなくなってしまう人がいる。
その原因をさぐってみよう。
子役として大成功するとはどういうことか
中身に注目すると分かってくることがある。
子役として認められるということの要因を見ていくと
子供のあること自体であるように思う。
大人になってしまえば用済みなのである。
年代とともに認められるために必要な要素が変わっていく。
子役として認められる能力は汎用性がないので、
認められるための要素が変わった時に、
その能力が意味をなさなくなる可能性が高い。
つまり、今までとは別の要素が必要とされる
ということである。

2011年12月28日水曜日

実践を通じて理論を考える段階をショートカットできる。

実際に行動してみると、前もって考えていたことのほとんどは無意味であることが少なくない。経験を積むことで、情報量の多くを遮断することができる。情報をいかに多く得るかではなく、いかに質のよい情報を得て、質の悪い情報を捨てるかが現代のテーマになっている事は自明のことであるが、情報の取捨選択をするためには、完璧な論理的思考力を身につけたうえで(論理的に矛盾した情報は全て偽であると判断して切り捨てることが出来る。)
経験により、情報を得る必要性を減らすことが大切だ。

自分の中にある理解を育てる

ものごとに対する理解のしかたは人それぞれだ。
よって、たとえ理解すべき物事は全体に共通していても、その共通した理解に達するためのアプローチはひとによって異なっていてもいいはずだ。
仕事が出来る人間という目標に照準を合わせるなら、必要な理解の基準すら人によって異なる。
したがって主観的な立場に立てば、できる限り自分にとって自然なやりかたで理解に到達しようとするべきである。他人がいいとするやりかたに無理やりは手はめようとすると、かえって物事を理解するのが遅れる危険性がある。これは、競争社会においては取り返しのつかないビハインドになっていくだろう。一見過激に見えても、自分のやりかたを貫くことが必要になる場面は多くなってくる。そうしないと、結局のところ、無能力者になって他人の足を引っ張りかねない。社会に貢献するという目的に到達する過程において、徹底的に自己中心になる必要性に迫られる。

ファッションについて

昔は、ファッションに気を使う金と時間があれば勉強して上に行けという考え方が周りでは主流だったが果たしてその考えは正しいだろうか?
他人とかかわる以上相手に何らかの印象を与えるわけだからファッションは他人との関わりにおいて重要である。
 なめられたら終わりという点で、ファンションに気を使うのは現代人の義務だといえる。
あまりにも服装がいい加減だと、周りからつまはじきにされ勉強することにすら悪影響を及ぼす。良好な人間関係を保つことが、個人の能力を磨くことに限っても大切になってくる。勉強の為だけのことを考えてもファッションに最低限の気を使うことは必要になってくるだろう。

2011年12月25日日曜日

比喩に過ぎない言葉が現状の把握を妨げる

比喩に過ぎない言葉に思考を流されるのは危険である。
状況を記述する時に言葉を用いて表現した時に
表現された言葉を見た時に持つイメージと、実際の状況は大きくずれる。
ある状況判断を元に行動しなければならない時
このずれは誤った行動をひきおこす。
言葉のイメージに引きずられて状況分析をして行動に移していないか常に注意をする必要がある。言葉とは別の階層で状況を把握することが必要である。言葉を用いて意識に上らせるときにも常に多面的な切り口をすばやく柔軟に容易できる力が重要である。
状況を正確に認識する。
そのために自分の状況判断が正しいか(言葉のイメージに引きずられていないか)
を常に吟味し続ける。

2011年12月24日土曜日

人事部

まえに伊集院静氏が企業の人事のことを
ボロクソに書いていたが、

他人の死を踏み台にしてでも上に行けるか?

結構前に、知り合いが自殺した。知り合いで自殺したのは二人目だ。もう一人はそれなりに仲が良かった。
たいして話こともなく特にショックでもなかったが、
時間がたつにつれてじわじわと影響を与えられている
気がする。
 人生にタイムリミットがあるということをより実感をもって示された形だ。少しでも楽しく、密度の濃い時間を過ごさなければならないという強迫観念がさらに明確なものとなった。百パーセント自由に生きることを追求するのが自分の中で当たり前になった。今日死ぬことからゼロベースでどこまで毎日のクオリティをとことんまで引き上げる。
いつかやるつもりのことを今日からやる、明日からやる。
金は時間の密度を上げるための手段でいかない。
時間の密度を上げるために金を惜しんではならない。

凡人が十年かけてやることを一年でやれ。
それだけで九年長く生きることが出来る。
普通の人が一生かかっても越えられないハードルを二三年単位で越えてやる。
彼らの死を自分の理論武装の為に徹底的に利用させて貰おう。
自分はもっと好き勝手にもっと賢く生きる。

昭和的世界観からの脱出

昭和という時代に妙な懐かしさを覚える。
平成の良さをしっている立場からすれば、
昭和は頭が悪い時代のように見えてしまう。
抑圧的、相互監視的で、成果を無視した根性主義
合理性よりも人情を、楽しさよりも忍耐を要求すること
なと個人としての幸せも社会全体としての生産性も
極めて低いといわざるを得ないが、
それでも妙に懐かしさを覚えてしまう。
素朴な他人に対する信頼や未来に対する希望が
あったような気がするからだろうか?(たぶん幻想だろうけど)
我々くらいの世代は昭和的世界観と平成的世界観との間で葛藤して生きていかなければならない
特異な世代かもしれない。
下の世代の考えかたに対しても、上の世代の考え方に
対しても強い反発を感じる。
あ、でも、色々言っておいてなんだが、同世代に対しても強い反発を感じる(笑)
こりゃ、もう、どうしようもないな。

強さ≒悪

権力の中枢にいる人間がさほど優秀とは思えない。(生産性、効率性)という意味で。
経済的に豊かさを追求する上で、より大きな富を生み出せる能力という点に限っても、権力を持っている旧世代に人間が優秀かどうかには疑問符が付く。
必要以上に協調性を求められる風潮がある。そうでは、集団として利益を生みだすのに必要だからというより、
むしろ昔はそれでうまくいっていた、そうせざるを得なかった、あるいはたまたまそうなったという形式を惰性で現代に引き継いでいるにすぎない。(伝統と呼ばれるものの多くはそうである)
日本全体が経済的に豊かになるためには、全く別のシステムが必要な気がする。
ましてや、豊かさだけでなく幸せを追求するとなるとさらに別の飛躍が必要な気がする。
ホリエモンは小説の中で強さとは悪であるという記述をしていたが、
今の日本社会で、生みだせる付加価値の量と質を引き上げるには日本のメインストリームの価値観と照らしあわせて「悪」にならざるをえないのではないだろうか。

2011年12月23日金曜日

テレビについて

最近ではほとんど見なくなったが、昔は割と良くテレビを見ていたものだ。
テレビは、基本的に娯楽性が低いが、公共性の高さ、付ければすぐにタダで見られる、昔からあるから惰性で見られるといった要素によって一般に広まっている。
若者が、テレビからはなれ(少なくとも主観的には)娯楽性の高いネットに流れるのは当然のことだろう。テレビの内容と、テレビ局、視聴者の質の最近のあり方は(某テレビ局の最近の騒動、テレビに影響を受ける若者(年上の人も)の残念さ)、日本の沈没と根底で通じている部分がある気がする。
子供の早いうちにテレビから得られるもの(知識、考え方、受動的娯楽への向き合い方)は得てさっさと卒業し、ネットで自分用にカスタマイズされた密度の高い娯楽を得られるようになるべきだ。
40年そこに浸るか、一、二年で本質的なものは習得して通過できるかが、一般人と知的上流階級の差になる。
これは、この世界に存在するほとんどすべての事象に対する向き合い方において同じことが言えるだろう。
本質を見極めることで、数十年を数年に圧縮できるスピード感、それが、凡人とケタ違いの生産性、人生の密度の濃さにつながる。

純粋な子供から汚れた大人への相転移の構造を乗り越えるために

趣味で飯が食える実力があればいい。
そうすれば、(普通の意味での)大人になる必要はない。
その人の人生にとって、子供か大人になるという命題は消え失せてしまう。
 問題を解決する能力ではなく、問題を消滅させてしまう、圧倒的な才能がほしい。そのために最大限努力するべきだろう。

過去や、現代を分析するしか能がないなら人生やめちまえ。未来を想像し、形にしていける力を身につけろ。

すでに存在している者にケチをつける(あるいは、ほめたたえる)のはたやすい。無から有を生み出すことの方が難しく、真に価値がある。
いや、人によっては無から有を生み出す方が簡単かもしれないが。できる、人にとっては後者の作業の方がはるかに楽しいのだろう。

ギャルゲーにみるコミュニケーション至上主義への反逆

昔、オタクとは全く無縁の友人がギャルゲーをやることになったことがあった。積極的というか強迫観念的に新しい世界を体験するタイプの人間だったから、半分義務的にオタク世界を体験しようと思ったのだろう。日本経済を考える上でコンテンツ産業についての知識がほしかったといったところだろうか。
ともかく、ぶつぶつの思ったことをしゃべりながらプレイしてくれたので、見てる方としては面白かった。
ギャルゲーでは、たいてい授業時間はカットされ昼休みや放課後、休日等の授業以外の時間を女の子と会話することがメインで進行していく。
その友人は授業や勉強にすんげえ真面目に取り組む奴だったので、授業をとばすようなシステムが許せないらしく、お前ら勉強しろよ、、と突っ込みを入れていた。
ギャルゲーがゲームとして成立できるのはひとつにはコミュニケーションのゲーム性を極限まで濃縮ことによるものだが、リアルでは必ずしもコミュニケーションが重要な部分を占めない。ギャルゲーが舞台となる学校生活でも、授業時間が何より大切だと考える人も多いだろうし、そこに最大の面白味を見出し、それ以外に対して関心を払わない人もいるだろう。ギャルゲーでは、学校生活におけるコミュニケーション以外の部分の価値がディスられすぎる傾向にある気がする。ここにギャルゲーにはまる人間(非リア)と、はまらない人(リア充)を分ける本質的な要素があるのではないか?

エンディングに行った時に、ぽつりと時間を無駄にした、と呟いていたのが印象的だった。非オタがオタクにならないのは、アニメやゲームの面白さをしらないからであり、彼らが実際に名作に触れればそれなりの確率でオタクになるだろうと考えていた。しかし、ギャルゲーに対ししっかりとコミットしたうえでくだらないと切り捨てる友人を見て、ああ、本質的にオタク文化を必要としない人間がいて、それがたぶん大多数なんだろうなと感じだ。
この経験を通じ、オタク文化はいつまでたってもごくごく毎にあっくな部分を占めるにすぎないだろうし、社会の本流になることはまずないと確信した。この経験があったからというだけではないが、最近、オタク文化が社会全体とくらべて相対的に大きな価値を持つと考える人々は滑稽だと感じる。

2011年12月22日木曜日

コミュ二ケーションスキルとは?

相手から情報を引き出すこと。その情報を分析し、目的を達成するために相手をうまく誘導する。
そのときに、目的を達成するための道筋を直接的に言葉にする(正論を言う)よりも、結果として相手に目的達成のための行動をするように仕向けることが大事である。
そのときに、論理的であることにこだわる必要はない。相手を気持ちよくさせ、ポジティブな思考を加速させ、発想力や行動力を喚起してやることが大切である。そして、その方向性を正しい方向に向けるようにしていく。
キャッチコピーにするならば、「正しい行動をさせるために、正しい言葉を使う必要はないということである。」

2011年12月17日土曜日

2011年12月16日金曜日

ゼロから始める勇気。全ての前提を取り除いて考える力。

余計な知識や先入観をわきに置いて、状況に対してゼロベースですばやく仮説を組み立て、推論する。そして、状況の変化に合わせて柔軟に対応できるようにする。状況をありのままに把握してそれに合わせて一から組み立てる。

また、蓄積が沢山ある分野以外での勝負を徹底して避ける。負ける闘いを全て避け、勝てる分野で圧勝する。

頭を切り替えること、要領の良さ

煮詰まったときは、さっさと頭を切り替えるべきである。それを素早くできるか。
要領がいいことを悪く考える人もあるが、要領のよさを徹底的に肯定的にとらえらときに、何かが見えてくる。

結果を出すためのプロセスの入り口の段階で綿密な計画を立てるか?それともすぐに行動をはじめ行動をする中で、現実に合わせた微調整をしつつ結果を出すことを目指すか。

まず行動することが大切だ。
前もって考えていたことは行動してみると大半が全く役に立たない。行動しながら考えていくことで、考える内容は自ずと直接の行動に関係したことがらに絞られている。行動と関係ない無駄な内容は出来るだけ感がなくてすむわけだ。
数学は綿密な準備をしてから証明にかかるような授業や本が多いが、むしろ人間が理解する過程としては、直観やひらめきに基づいたなんとなくわかる、そういう気がするという感覚に基づいた思考プロセスの方が自然である。勉強する段階においても、そういった人間の脳の仕組みと照らし合わせてより自然なプロセスを経た方が、当初目的とする結果、すなわち、ある内容を完全に厳密に理解し、それを応用させるという目的の為により近道になるだろう。
つまり、完璧な結果を得るためには、各工程において完ぺきである必要はない。むしの脳のしくみにとってしぜんなあいまいでいい加減なプロセスを経て柔軟性を持って物事に取り組んだ方が完璧な結果を得るまでの時間的精神的コストは激減するだろう。また、柔軟性のあるプロセスを自ら作れるものは、他の分野のことに取り組む段階においても強力な応用力を発揮できるようになるだろう。
一分野にしがみついても二流になれない人間がいる一歩で、マルチな分野で一流に達することのデキル人間がいる。その違いはどこにあるか?そのカギが結果を重視するためにプロセスに柔軟性を持たせることにある。

追記:さらに数学について言えば、先人の残した理論を完璧に理解することを目標に置く必要さえない。オリジナリティのある研究結果をアウトプットすることに目標を置くならば、それすら、柔軟性の欠き結果の伴わない「完璧」なプロセスになり下がる可能性がある。

2011年12月13日火曜日

自分のエゴを百パーセント殺した経験があるか?

自分自身を完璧に殺せる人間というものがたまに存在する。
俺には無理だが、大したもんだと思う。

2011年12月12日月曜日

内閣不支持率が支持率を上回る

日本の首相がころころ変わる原因の一つに日本人の周りに流されやすい性質があると思う。
マスコミの報道に流され、支持、不支持がすぐに変わる。
それが、首相が すぐに変わる原因になる。
必要以上に政治不信をあおるマスコミと、人をたたきたいという願望を持ちマスコミの報道を容認する国民に原因がある。
政治家の側にも問題はある。汚職は多いし、不用意な発言、行動が多い。良くも悪くも変な人間が多く、問題を起こしやすい雰囲気がある。(国民の平均的な常識と離れている。もちろん一般人から離れた考え方を持っていいないと政治等できないが。)

2011年12月10日土曜日

学校(会社)に利用される私ではなく、学校(会社)を利用する私になりたい

学校は給料をもらっているわけではないのだから、学校に対し労働力を提供する義務はない。学生は学校にサービスを供給してもらう立場にある。もっといえば、組織に所属するのは、組織に使われるためではなく、自己の目的を果たすのに必要な物を得るため出なければならない。人間は誰しも自己という個人単位でしか世界をみることができない。個人の利益の最大化が、社会全体の利益につながらなければならない。

高校時代に涼宮ハルヒ見たいな生き方をしたやつが大人になって社会で役に立つのだろうか?

昔、涼宮ハルヒを見て、これって、SOS団がベンチャー企業でハルヒが社長で団員が社員だよなと思ったことがある。(実際は、時間、空間を含めた全世界をマネージメントする立場にあって、団員は各巨大勢力から出向しているという立場である)ハルヒみたいな高校の時点でエネルギー、発想力、行動力がある奴が大学時代に協調性や専門知識、社会常識を身につければ、一流企業に入れるんだろうな。少なくとも、受験エリートよりもハルヒ見たいな人間の方が高校の時点では、大人になって多くの付加価値を生み出す人間に成長する過程であるという点においてはアドバンテージを持っているように思う。