昔、オタクとは全く無縁の友人がギャルゲーをやることになったことがあった。積極的というか強迫観念的に新しい世界を体験するタイプの人間だったから、半分義務的にオタク世界を体験しようと思ったのだろう。日本経済を考える上でコンテンツ産業についての知識がほしかったといったところだろうか。
ともかく、ぶつぶつの思ったことをしゃべりながらプレイしてくれたので、見てる方としては面白かった。
ギャルゲーでは、たいてい授業時間はカットされ昼休みや放課後、休日等の授業以外の時間を女の子と会話することがメインで進行していく。
その友人は授業や勉強にすんげえ真面目に取り組む奴だったので、授業をとばすようなシステムが許せないらしく、お前ら勉強しろよ、、と突っ込みを入れていた。
ギャルゲーがゲームとして成立できるのはひとつにはコミュニケーションのゲーム性を極限まで濃縮ことによるものだが、リアルでは必ずしもコミュニケーションが重要な部分を占めない。ギャルゲーが舞台となる学校生活でも、授業時間が何より大切だと考える人も多いだろうし、そこに最大の面白味を見出し、それ以外に対して関心を払わない人もいるだろう。ギャルゲーでは、学校生活におけるコミュニケーション以外の部分の価値がディスられすぎる傾向にある気がする。ここにギャルゲーにはまる人間(非リア)と、はまらない人(リア充)を分ける本質的な要素があるのではないか?
エンディングに行った時に、ぽつりと時間を無駄にした、と呟いていたのが印象的だった。非オタがオタクにならないのは、アニメやゲームの面白さをしらないからであり、彼らが実際に名作に触れればそれなりの確率でオタクになるだろうと考えていた。しかし、ギャルゲーに対ししっかりとコミットしたうえでくだらないと切り捨てる友人を見て、ああ、本質的にオタク文化を必要としない人間がいて、それがたぶん大多数なんだろうなと感じだ。
この経験を通じ、オタク文化はいつまでたってもごくごく毎にあっくな部分を占めるにすぎないだろうし、社会の本流になることはまずないと確信した。この経験があったからというだけではないが、最近、オタク文化が社会全体とくらべて相対的に大きな価値を持つと考える人々は滑稽だと感じる。
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