2011年12月31日土曜日

神童の没落、周りから求められるものの変化

芸能人で子役として大成功したものの、
数年で干され、一般人になるならいいが、
没落を続けどうにもならなくなってしまう人がいる。
その原因をさぐってみよう。
子役として大成功するとはどういうことか
中身に注目すると分かってくることがある。
子役として認められるということの要因を見ていくと
子供のあること自体であるように思う。
大人になってしまえば用済みなのである。
年代とともに認められるために必要な要素が変わっていく。
子役として認められる能力は汎用性がないので、
認められるための要素が変わった時に、
その能力が意味をなさなくなる可能性が高い。
つまり、今までとは別の要素が必要とされる
ということである。

2011年12月28日水曜日

実践を通じて理論を考える段階をショートカットできる。

実際に行動してみると、前もって考えていたことのほとんどは無意味であることが少なくない。経験を積むことで、情報量の多くを遮断することができる。情報をいかに多く得るかではなく、いかに質のよい情報を得て、質の悪い情報を捨てるかが現代のテーマになっている事は自明のことであるが、情報の取捨選択をするためには、完璧な論理的思考力を身につけたうえで(論理的に矛盾した情報は全て偽であると判断して切り捨てることが出来る。)
経験により、情報を得る必要性を減らすことが大切だ。

自分の中にある理解を育てる

ものごとに対する理解のしかたは人それぞれだ。
よって、たとえ理解すべき物事は全体に共通していても、その共通した理解に達するためのアプローチはひとによって異なっていてもいいはずだ。
仕事が出来る人間という目標に照準を合わせるなら、必要な理解の基準すら人によって異なる。
したがって主観的な立場に立てば、できる限り自分にとって自然なやりかたで理解に到達しようとするべきである。他人がいいとするやりかたに無理やりは手はめようとすると、かえって物事を理解するのが遅れる危険性がある。これは、競争社会においては取り返しのつかないビハインドになっていくだろう。一見過激に見えても、自分のやりかたを貫くことが必要になる場面は多くなってくる。そうしないと、結局のところ、無能力者になって他人の足を引っ張りかねない。社会に貢献するという目的に到達する過程において、徹底的に自己中心になる必要性に迫られる。

ファッションについて

昔は、ファッションに気を使う金と時間があれば勉強して上に行けという考え方が周りでは主流だったが果たしてその考えは正しいだろうか?
他人とかかわる以上相手に何らかの印象を与えるわけだからファッションは他人との関わりにおいて重要である。
 なめられたら終わりという点で、ファンションに気を使うのは現代人の義務だといえる。
あまりにも服装がいい加減だと、周りからつまはじきにされ勉強することにすら悪影響を及ぼす。良好な人間関係を保つことが、個人の能力を磨くことに限っても大切になってくる。勉強の為だけのことを考えてもファッションに最低限の気を使うことは必要になってくるだろう。

2011年12月25日日曜日

比喩に過ぎない言葉が現状の把握を妨げる

比喩に過ぎない言葉に思考を流されるのは危険である。
状況を記述する時に言葉を用いて表現した時に
表現された言葉を見た時に持つイメージと、実際の状況は大きくずれる。
ある状況判断を元に行動しなければならない時
このずれは誤った行動をひきおこす。
言葉のイメージに引きずられて状況分析をして行動に移していないか常に注意をする必要がある。言葉とは別の階層で状況を把握することが必要である。言葉を用いて意識に上らせるときにも常に多面的な切り口をすばやく柔軟に容易できる力が重要である。
状況を正確に認識する。
そのために自分の状況判断が正しいか(言葉のイメージに引きずられていないか)
を常に吟味し続ける。

2011年12月24日土曜日

人事部

まえに伊集院静氏が企業の人事のことを
ボロクソに書いていたが、

他人の死を踏み台にしてでも上に行けるか?

結構前に、知り合いが自殺した。知り合いで自殺したのは二人目だ。もう一人はそれなりに仲が良かった。
たいして話こともなく特にショックでもなかったが、
時間がたつにつれてじわじわと影響を与えられている
気がする。
 人生にタイムリミットがあるということをより実感をもって示された形だ。少しでも楽しく、密度の濃い時間を過ごさなければならないという強迫観念がさらに明確なものとなった。百パーセント自由に生きることを追求するのが自分の中で当たり前になった。今日死ぬことからゼロベースでどこまで毎日のクオリティをとことんまで引き上げる。
いつかやるつもりのことを今日からやる、明日からやる。
金は時間の密度を上げるための手段でいかない。
時間の密度を上げるために金を惜しんではならない。

凡人が十年かけてやることを一年でやれ。
それだけで九年長く生きることが出来る。
普通の人が一生かかっても越えられないハードルを二三年単位で越えてやる。
彼らの死を自分の理論武装の為に徹底的に利用させて貰おう。
自分はもっと好き勝手にもっと賢く生きる。

昭和的世界観からの脱出

昭和という時代に妙な懐かしさを覚える。
平成の良さをしっている立場からすれば、
昭和は頭が悪い時代のように見えてしまう。
抑圧的、相互監視的で、成果を無視した根性主義
合理性よりも人情を、楽しさよりも忍耐を要求すること
なと個人としての幸せも社会全体としての生産性も
極めて低いといわざるを得ないが、
それでも妙に懐かしさを覚えてしまう。
素朴な他人に対する信頼や未来に対する希望が
あったような気がするからだろうか?(たぶん幻想だろうけど)
我々くらいの世代は昭和的世界観と平成的世界観との間で葛藤して生きていかなければならない
特異な世代かもしれない。
下の世代の考えかたに対しても、上の世代の考え方に
対しても強い反発を感じる。
あ、でも、色々言っておいてなんだが、同世代に対しても強い反発を感じる(笑)
こりゃ、もう、どうしようもないな。

強さ≒悪

権力の中枢にいる人間がさほど優秀とは思えない。(生産性、効率性)という意味で。
経済的に豊かさを追求する上で、より大きな富を生み出せる能力という点に限っても、権力を持っている旧世代に人間が優秀かどうかには疑問符が付く。
必要以上に協調性を求められる風潮がある。そうでは、集団として利益を生みだすのに必要だからというより、
むしろ昔はそれでうまくいっていた、そうせざるを得なかった、あるいはたまたまそうなったという形式を惰性で現代に引き継いでいるにすぎない。(伝統と呼ばれるものの多くはそうである)
日本全体が経済的に豊かになるためには、全く別のシステムが必要な気がする。
ましてや、豊かさだけでなく幸せを追求するとなるとさらに別の飛躍が必要な気がする。
ホリエモンは小説の中で強さとは悪であるという記述をしていたが、
今の日本社会で、生みだせる付加価値の量と質を引き上げるには日本のメインストリームの価値観と照らしあわせて「悪」にならざるをえないのではないだろうか。

2011年12月23日金曜日

テレビについて

最近ではほとんど見なくなったが、昔は割と良くテレビを見ていたものだ。
テレビは、基本的に娯楽性が低いが、公共性の高さ、付ければすぐにタダで見られる、昔からあるから惰性で見られるといった要素によって一般に広まっている。
若者が、テレビからはなれ(少なくとも主観的には)娯楽性の高いネットに流れるのは当然のことだろう。テレビの内容と、テレビ局、視聴者の質の最近のあり方は(某テレビ局の最近の騒動、テレビに影響を受ける若者(年上の人も)の残念さ)、日本の沈没と根底で通じている部分がある気がする。
子供の早いうちにテレビから得られるもの(知識、考え方、受動的娯楽への向き合い方)は得てさっさと卒業し、ネットで自分用にカスタマイズされた密度の高い娯楽を得られるようになるべきだ。
40年そこに浸るか、一、二年で本質的なものは習得して通過できるかが、一般人と知的上流階級の差になる。
これは、この世界に存在するほとんどすべての事象に対する向き合い方において同じことが言えるだろう。
本質を見極めることで、数十年を数年に圧縮できるスピード感、それが、凡人とケタ違いの生産性、人生の密度の濃さにつながる。

純粋な子供から汚れた大人への相転移の構造を乗り越えるために

趣味で飯が食える実力があればいい。
そうすれば、(普通の意味での)大人になる必要はない。
その人の人生にとって、子供か大人になるという命題は消え失せてしまう。
 問題を解決する能力ではなく、問題を消滅させてしまう、圧倒的な才能がほしい。そのために最大限努力するべきだろう。

過去や、現代を分析するしか能がないなら人生やめちまえ。未来を想像し、形にしていける力を身につけろ。

すでに存在している者にケチをつける(あるいは、ほめたたえる)のはたやすい。無から有を生み出すことの方が難しく、真に価値がある。
いや、人によっては無から有を生み出す方が簡単かもしれないが。できる、人にとっては後者の作業の方がはるかに楽しいのだろう。

ギャルゲーにみるコミュニケーション至上主義への反逆

昔、オタクとは全く無縁の友人がギャルゲーをやることになったことがあった。積極的というか強迫観念的に新しい世界を体験するタイプの人間だったから、半分義務的にオタク世界を体験しようと思ったのだろう。日本経済を考える上でコンテンツ産業についての知識がほしかったといったところだろうか。
ともかく、ぶつぶつの思ったことをしゃべりながらプレイしてくれたので、見てる方としては面白かった。
ギャルゲーでは、たいてい授業時間はカットされ昼休みや放課後、休日等の授業以外の時間を女の子と会話することがメインで進行していく。
その友人は授業や勉強にすんげえ真面目に取り組む奴だったので、授業をとばすようなシステムが許せないらしく、お前ら勉強しろよ、、と突っ込みを入れていた。
ギャルゲーがゲームとして成立できるのはひとつにはコミュニケーションのゲーム性を極限まで濃縮ことによるものだが、リアルでは必ずしもコミュニケーションが重要な部分を占めない。ギャルゲーが舞台となる学校生活でも、授業時間が何より大切だと考える人も多いだろうし、そこに最大の面白味を見出し、それ以外に対して関心を払わない人もいるだろう。ギャルゲーでは、学校生活におけるコミュニケーション以外の部分の価値がディスられすぎる傾向にある気がする。ここにギャルゲーにはまる人間(非リア)と、はまらない人(リア充)を分ける本質的な要素があるのではないか?

エンディングに行った時に、ぽつりと時間を無駄にした、と呟いていたのが印象的だった。非オタがオタクにならないのは、アニメやゲームの面白さをしらないからであり、彼らが実際に名作に触れればそれなりの確率でオタクになるだろうと考えていた。しかし、ギャルゲーに対ししっかりとコミットしたうえでくだらないと切り捨てる友人を見て、ああ、本質的にオタク文化を必要としない人間がいて、それがたぶん大多数なんだろうなと感じだ。
この経験を通じ、オタク文化はいつまでたってもごくごく毎にあっくな部分を占めるにすぎないだろうし、社会の本流になることはまずないと確信した。この経験があったからというだけではないが、最近、オタク文化が社会全体とくらべて相対的に大きな価値を持つと考える人々は滑稽だと感じる。

2011年12月22日木曜日

コミュ二ケーションスキルとは?

相手から情報を引き出すこと。その情報を分析し、目的を達成するために相手をうまく誘導する。
そのときに、目的を達成するための道筋を直接的に言葉にする(正論を言う)よりも、結果として相手に目的達成のための行動をするように仕向けることが大事である。
そのときに、論理的であることにこだわる必要はない。相手を気持ちよくさせ、ポジティブな思考を加速させ、発想力や行動力を喚起してやることが大切である。そして、その方向性を正しい方向に向けるようにしていく。
キャッチコピーにするならば、「正しい行動をさせるために、正しい言葉を使う必要はないということである。」

2011年12月17日土曜日

2011年12月16日金曜日

ゼロから始める勇気。全ての前提を取り除いて考える力。

余計な知識や先入観をわきに置いて、状況に対してゼロベースですばやく仮説を組み立て、推論する。そして、状況の変化に合わせて柔軟に対応できるようにする。状況をありのままに把握してそれに合わせて一から組み立てる。

また、蓄積が沢山ある分野以外での勝負を徹底して避ける。負ける闘いを全て避け、勝てる分野で圧勝する。

頭を切り替えること、要領の良さ

煮詰まったときは、さっさと頭を切り替えるべきである。それを素早くできるか。
要領がいいことを悪く考える人もあるが、要領のよさを徹底的に肯定的にとらえらときに、何かが見えてくる。

結果を出すためのプロセスの入り口の段階で綿密な計画を立てるか?それともすぐに行動をはじめ行動をする中で、現実に合わせた微調整をしつつ結果を出すことを目指すか。

まず行動することが大切だ。
前もって考えていたことは行動してみると大半が全く役に立たない。行動しながら考えていくことで、考える内容は自ずと直接の行動に関係したことがらに絞られている。行動と関係ない無駄な内容は出来るだけ感がなくてすむわけだ。
数学は綿密な準備をしてから証明にかかるような授業や本が多いが、むしろ人間が理解する過程としては、直観やひらめきに基づいたなんとなくわかる、そういう気がするという感覚に基づいた思考プロセスの方が自然である。勉強する段階においても、そういった人間の脳の仕組みと照らし合わせてより自然なプロセスを経た方が、当初目的とする結果、すなわち、ある内容を完全に厳密に理解し、それを応用させるという目的の為により近道になるだろう。
つまり、完璧な結果を得るためには、各工程において完ぺきである必要はない。むしの脳のしくみにとってしぜんなあいまいでいい加減なプロセスを経て柔軟性を持って物事に取り組んだ方が完璧な結果を得るまでの時間的精神的コストは激減するだろう。また、柔軟性のあるプロセスを自ら作れるものは、他の分野のことに取り組む段階においても強力な応用力を発揮できるようになるだろう。
一分野にしがみついても二流になれない人間がいる一歩で、マルチな分野で一流に達することのデキル人間がいる。その違いはどこにあるか?そのカギが結果を重視するためにプロセスに柔軟性を持たせることにある。

追記:さらに数学について言えば、先人の残した理論を完璧に理解することを目標に置く必要さえない。オリジナリティのある研究結果をアウトプットすることに目標を置くならば、それすら、柔軟性の欠き結果の伴わない「完璧」なプロセスになり下がる可能性がある。

2011年12月13日火曜日

自分のエゴを百パーセント殺した経験があるか?

自分自身を完璧に殺せる人間というものがたまに存在する。
俺には無理だが、大したもんだと思う。

2011年12月12日月曜日

内閣不支持率が支持率を上回る

日本の首相がころころ変わる原因の一つに日本人の周りに流されやすい性質があると思う。
マスコミの報道に流され、支持、不支持がすぐに変わる。
それが、首相が すぐに変わる原因になる。
必要以上に政治不信をあおるマスコミと、人をたたきたいという願望を持ちマスコミの報道を容認する国民に原因がある。
政治家の側にも問題はある。汚職は多いし、不用意な発言、行動が多い。良くも悪くも変な人間が多く、問題を起こしやすい雰囲気がある。(国民の平均的な常識と離れている。もちろん一般人から離れた考え方を持っていいないと政治等できないが。)

2011年12月10日土曜日

学校(会社)に利用される私ではなく、学校(会社)を利用する私になりたい

学校は給料をもらっているわけではないのだから、学校に対し労働力を提供する義務はない。学生は学校にサービスを供給してもらう立場にある。もっといえば、組織に所属するのは、組織に使われるためではなく、自己の目的を果たすのに必要な物を得るため出なければならない。人間は誰しも自己という個人単位でしか世界をみることができない。個人の利益の最大化が、社会全体の利益につながらなければならない。

高校時代に涼宮ハルヒ見たいな生き方をしたやつが大人になって社会で役に立つのだろうか?

昔、涼宮ハルヒを見て、これって、SOS団がベンチャー企業でハルヒが社長で団員が社員だよなと思ったことがある。(実際は、時間、空間を含めた全世界をマネージメントする立場にあって、団員は各巨大勢力から出向しているという立場である)ハルヒみたいな高校の時点でエネルギー、発想力、行動力がある奴が大学時代に協調性や専門知識、社会常識を身につければ、一流企業に入れるんだろうな。少なくとも、受験エリートよりもハルヒ見たいな人間の方が高校の時点では、大人になって多くの付加価値を生み出す人間に成長する過程であるという点においてはアドバンテージを持っているように思う。

2011年11月27日日曜日

やりたいことと、やりたかったこと

子供のころはろくに遊べずに勉強漬けにならざるをえなかった。
子供の頃に本当にやりたかったことはほとんど全て抑圧せざるをえなかった。
中学以降の人生で、抑圧したやりたかったこと以上のこととはほとんどで会えなかった。
いま自分の手持ちとしてあるやりたいことの種というのは、子供のころに本当にやりたかったことと比べると、まったくどうでもいいことにすぎない。
多少興味をもってやり始めてみても、すぐにどうでもよくなってしまう。はじめからそうなることは分かっていても、
ほかにそれ以上に興味が持てることがないわけだから、前に進むためにはやらざるをえない。
そうして、さまざまな対して興味はないが、興味の度合いとしては比較的マシなレベルにある事柄に次々と手をだしてはやっぱりくだらないことを再認識してやめる、というループを半永久的に繰り返したきた。
だが、ただ漫然と繰り返してきたわけではない。すこしでも、自分の人生においてステップとなりうるもの、本質的な能力向上につながりうるものを選んで、そのうえでループを回す速度を加速度的に上げてきた。そうして、ついに数学にたどりついた。さて、これからどうなるのでしょう。

言葉での物を考えすぎる人の為の論理的思考力の鍛え方

巷にあふれている本を読んだり、知識人的な人の話を聞いて気になることの一つに、言葉とそれが指し示す現実との著しい乖離である。
これは、現実に対する認識のイメージがあいまいなまま言葉が先に出てきている状態だと考えられる。
つまり、複雑で具体的な構造を持っている現実的な事柄に対して、それを抽象化して「こういうふうになっている」「俺はこう思う」といった意見を述べるときに具体的な構造を把握できていない状態で、こうに違いないという主張をしてしまうので、聞く側からすると、何かがちがう、どうしてか分からないけど気持ち悪いという違和感を持ってしまう。
これに対する対策はいたってシンプルである。
「これはこうだ」という主張が指し示している中身を細かく見ていくことである。そうすると、ある場合には主張は当てはまるが、当てはまらない場合もあることが分かってくる。
そうすると「これはこうだ」という発言から「こういう状況のときに限りこれはこうなる」といった、より現実の状況を正確に反映した発言になっていく。こうした、作業をを自分の持っている重要な主張や他人の主張に、徹底的にくり変えしていく。
そうすれば、自分の発することばはより現実を正確に反映したものとなり、他人の現実をうまく反映できていない主張に対して敏感になり、だまされることは少なくなっていくだろう。
要約すると
現実の構造をできるだけ正確に細かく把握すること。
把握した内容をもっとも分かりやすく的確に相手に伝わるように言葉にすること

広い意味での情報を他者伝えられる量と質を上げるには上記の方法が近道であり、それは、より密度の濃い時間を過ごすことにもつながる。

落ちこぼれた人間が這いあがるには、情報の圧縮をくりかえすしかない。常人が十年かけてやる情報のインプットとアウトプットの仮定を一年くらいに圧縮する。そうすることで、少なくとも人生の「情報」の部分の体感速度を徹底して上げてやる。そうすれば「情報」に関する部分だけば、他人に追いつくことが出来る。人生において重要な部分の多くはあつかう「情報」の量と質がキーになると考える。

2011年11月22日火曜日

不規則な生活

夜中に光を浴びない。食べない。朝は早く起きて調整する。
この三点に尽きる。

2011年11月14日月曜日

頭の良さとは結局スキルの一つにすぎなかった。

自分は頭が悪いことがコンプレックスだった。中には頭がいいといってくれる人間もいたが、自分では納得がいかなかった。自分の状況と、頭がいいというのにはどうも納得がいかなかった。周りを見てコイツ明らかに頭がいいという奴がいたし、漫画やアニメで見る、いわゆる頭のいいとうのとは違う気がした。見よう見まねで頭のよさそうな人々の考え方を盗み取り、数年かけてようやく同じような感覚を手に入れることが出来た。出来るようになってみると結局のところそれらはスキルの集積に過ぎなかった。論理力の習得と、それをあらゆることに的確に応用できる力を習得することが非常に大切であった。

2011年11月13日日曜日

重度中二病患者の末路

中学の頃、まわりには小賢しい連中が多かった。それなりに金持ちの家に生まれなにもしないくせに、頭がまわるので、偉そうなことばかり言うのだ。頑張っている他人の批判をするのは一人前のくせに本人はひたすらだらだらしているだけだ。社会のことが分かったような気になって、自分は頭がいいと思い込んで、サボり気味の生活を送る。
そういった連中が、後にあっさりと一流大学に受かっていくのは面白かった。そいつらがゆくゆくは社会の中枢に入っていく。金と頭脳は正義である。

P.S.もっと本気で潰しておけばよかった。

某球団会長の話

それなりに有名な球団の会長が球団を私物化しているというニュースがあった。人は誰しも子供の頃はおもちゃで遊ぶのが好きなもである。そして、それが手に入らないと親にダダをこねることもある。それを大人は注意し、子供は改めていく。だが、待てよ。強大な権力をもったものは、より子供っぽくふるまうものである。子供よりも、遥かに巨大なおもちゃを手に入れ、そのおもちゃに子供よりもはるかに強く執着する。
たぶん、それが許される状況を築き上げていくスキルと要領の良さと行動力を身につけることが階段を上るための基礎になるのだろう。
でっかいおもちゃで好きなだけ遊べる大人になりたいものである。

人を使うということ

昔、友人が「自分がやれないことはひとにやらせればいい」といっていた。最近その重要性を再認識した。
自分の能力を本質的なことのためにさけるようにするために、本質的でないことを人にやらさせる能力が極めて大事だということである。多くの場合、それが金によって人を使うということを通して可能になるのだが、金がない場合でもそれが可能になる。それは相手のモチベーションをピンポイントで刺激してやることだ。 タイミングとやり方をうまくすれば、ほとんど労力をかけずに他人を利用することが可能である。使う側としては、モチベーションを金以外の手段で操作しやすい人間を見極め、相手のつぼをよく知りそこを的確につくことである。そのために、「もしドラ」にも書かれているように、真摯に(あるいは真摯であることを上手に装って)相手の話を最後まで聞き、情報を引き出すことが大切である。
なお、私はいままでに、上記の方法で散々他人に利用されてきたし、話してはまずいことをしゃべらされてき(笑)
大いに反省せねばなるまい。

2011年11月12日土曜日

ひらめきというものは本当に存在するか

多くの人がひらめきだと思い込んでいるものはたいてい論理的思考と経験に基づくものであり、無から有を生み出すたぐいのものではない。

2011年11月6日日曜日

プロフィール原稿

おい、お前。そう、これを読んでるそこのお前だよ。お前は世界の敵だ。俺の圧倒的な論理力で全てお前の人生を全て論破してやる。俺はお前を必ず潰す。地の果てまで追いかけてでも絶対につぶしてやるぞ!!ハッハッハッ!!!

2011年11月5日土曜日

精神の安定の重要性(書きかけ)

 ここ数年、感情的な人間と、冷静な人間とどちらが高いパフォーマンスを発揮できるかということが私の一つの大きな研究テーマであった。
結論から言うと圧倒的に冷静な人間が有利だと思われる。
感情の激しい

0戦100勝>100戦100勝(書きかけ)

戦わずして勝つという言葉が昔からある。
昔のことわざにしては珍しく内容が(多くの昔からある名言というものは所詮は情報量が少なかった時代に陶汰されずに長い期間生きのこり、主に長期間存在していたという理由だけで現代における生存が許されている。これは多くの「伝統」とよばれるものに当てはまることなのだが、「伝統」についてはいずれページを新たにつくって徹底して叩く、、もとい論考していく。)
コストパフォーマンスが徹底して求められる現代社会に
おいて究極的に重要なキーワードになってくるとい

無意識の愚民たち(書きかけ)

政治にだまされる民衆は本当に愚かか?
頭の悪さよりも、無関心からくる思考時間の短さ
による部分がおおきい。
5分でいいから真剣に耳を傾ければ、内容を完全に把握
できる事柄は多いが、情報量の多すぎる現代社会では、
すべてのことがらにその5分と労力をさく余裕はないというか物理的に不可能であろう。

冷静さを保ちつつ、テンションを上げてるかのようにふるまい、周りの人間を操作していく能力(書きかけ)

最近空気を読むことの重要性が喧伝されているが、
ビジネス書を読みあさっていると、場の空気を読める能力の次のステップの段階として、場の空気を作る能力が求められるらしい。
日本社会においては空気を読む段階においては、集団の中で生きのこる前に、余計なことは言わない、つまり黙っていくことが重要な要素の一つなのだが、空気の作る段階においては、他者の嗜好、考えを読み切って、それを自分の立場向上に利用するために徹底して働きかけていく必要がある。自分と他者がどう思っているかを完全に読み切り、

成果主義の最終到達点としての数学

社会における多くの成果(地位、名誉、権威)は論理をもっとことごとく突き崩すことが出来る。それらは、ある種の未熟な思想、論理体系のみによって権威づけられているので、そんなものに価値はないよという論理展開が可能である。
だが、数学において出た成果というものは、論理によって突き崩すことは不可能である。これはある意味では絶対的な成果と言える。
つまり、成果を出すことを極端に求める現代社会においても数学はより高次の価値を持ちうる。

三当四落

昔、三当四落という言葉があった。受験戦争が激しかった時代に、一流大学に入るには、睡眠時間を削ってでも勉強する必要があり、三時間睡眠なら合格できるが、四時間寝てしまうと、落ちてしまうという意味である。だが、私の印象では、それは全く的外れのように思う。長いこと、受験戦争の中に身を置いてきた立場から言わせてもらうと、八当五落くらいが現実的ではないだろうかと思う。
つまりそれなりに頭のいい人間が、全力で勉強するという環境のの中では、睡眠時間を十分に取るかどうかが明暗を分けてくる。睡眠時間を増やすと一見勉強時間が減るように思うが、実は記憶の定着率、起きている間の思考力に格段の差が出てくる。単位時間の効率でいえば、数倍以上の違いが出てくるかもしれない。そうなると、どちらが総合的にみてのびるかは明確だ。
ろくに勉強する人間がいない三流行なら、ガリ勉していても余裕でトップの成績がとれるだろうが、ハイレベル集団での競争になると論外な事になるのである。睡眠時間を削ってでも勉強して、奈落の底に落ちていった人間を多く見てきた。私の経験からいっても、睡眠時間を削れば全く成績は伸びず、睡眠時間をしっかりとれば、難なく学力が伸びっていったものである。そういう意味では人間のポテンシャルの限界ぎりぎりの結果が求められる環境下では、安易な根性主義や、精神主義の走ることは愚の骨頂でしかないことが、分かる。のんびりした性格の奴が案外ずばぬけて勉強が出来るということも少ないくないのだ。
今日は退屈だった。朝早く起きても、刺激が少ないまま一日を終えると、寝るのがもったいなくて、夜更かしをしてしまいがちだ。昼間にでるとこにでるのはやっぱり有意義だ。学校に行くというシステムは優れている部分もある。だが、やはり学校が勉強をするのに最善のシステムだとは思えないし、基本的に家にこもってやるのが圧倒的にパフォーマンスが上がるはずだ。自分をコントロールするのが難しい。
一日に勉強する分野数を増やす。20分野くらい。思い切って語学やIT系などの全く関係のない分野の勉強もとりいれてみるとおもしろいかもしれない。
勉強は結構嫌いなので、勉強以外の持ちネタを増やしたい。オセロを撤退したら持ちネタが一気に減る。作曲もそこまで大きなネタとはなりえない。能力を上げてもあまり、先に開かれてないとう感覚があるのが一番の問題だろう。
ブログを書くことや、ネットでオセロをやることは多少のアウトプットになっている。
今後やれることは、ニコ動のアップや、プログラミングコンテストか。

2011年11月3日木曜日

日本社会の病巣と沈みゆく国際競争力

日出ずる国が沈没する日

涼宮ハルヒの憂鬱の力

一部においては、所詮社会のゴミのようなヲタクどもが読む書物とされているところの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズからは意外にも有益な考え方を多く学ぶことが出来る。

完璧な論理的思考力を身につける

人生のできるだけ早い段階で100パーセントの論理的思考力を身につける。これは絶対的に必要。
頭のいいとされている人間や、社会的に地位のある人間ですら、大半はできていない。
当ブログでは論理もへったくれもない内容が書かれているが、それは大きな問題ではない。大切なのは必(・)要(・)と(・)あ(・)ら(・)ば(・)百パーセントの論理的思考力を発揮できることである。この能力は一定のトレーニングを積めば、
身につくし、一度見につけば半永久的に 使えるので是非見につけたい。
実は、論理を使う上で重要な点がある。つまり、論理的思考力が使える場面と使えない場面があるということである。

1 論理力を完璧に身につける。
2 リアルの生活で、論理が使えるか使えないかを一瞬で判断し、論理が使えるところでは徹底して使い、使えない場面では、論理を使うことを危険と判断し、その他の感性や直観に頼る、発言を差し控える、決めつけないなどの柔軟な措置をとる必要がある。

結論として重要なのは、数学や物理などの一部を除く
ほぼすべての学問、主張、思想、発言、議論において、
論理が使えない部分を含んでいることである。つまり、「ほぼすべての思想は百パーセント正しいとは言えない」
ということがいえる。さらに言うと
「ほぼすべての思想は反論可能である」
実生活に照らして言うと
「百パーセント正しいとは言えない思想に基づいて行動するのは大きなリスクをはらんでいる。」
現実生活に根差した頃がらというのは、多くのパラメーターを含んでおり、論理で結論を出すことが不可能のなだ。
論理を使えない領域で論理を使おうとする発言は
眉につばを付けて聴く必要がある。
これを的確に利用するば、人の話にだまされる(一見論理的に正しいと思われる主張を実際に正しいと判断してそれに基づいて行動し、大きな不利益を被ること)
はほぼなくなるだろう。

1 論理力を身につける
2 論理が使える場面使えない場面を判断する
普通は1すらできないが、2までできないと、あやしげな
宗教にはしったりする。某新興宗教に走ったインテリ君たちは、1はほぼ身についていたが、2が完全に欠落していたということなのだろう。

以上の内容は、読み書きそろばんのレベルで根本的な
スキルであるといえる。公教育において、すべての人間に
身につけさせる必要があるが、学校の教師はおろか公教育をつかさどるところの役人共も含めて、身についていないものが多いのが現状であろう。

これは、個人的に学校教育とはできるだけ関わりたくない理由の一つでもある。

論理とはつまるところ、選択肢である。

余談だが、まどか☆マギカに出てくる思想は、
選択枝の見落としによる思い込みがあり、
登場人物達の発言や行動は果てしなく愚かである。
まさしくホント、バカである。

さらに余談だが、現実生活において、選択肢の見落とし、
集合論が身についていないことによる思い込みの多いこと多いこと。。

論理的思考に使うためのツールは以下の通り
樹形図
集合論(高校で習う論理の→と集合の包含関係)
微分方程式の初期条件と時間発展
有限と無限の概念
を押さえておけばよい。
あとは、いつでもどこでも、呼吸をするかのように自然に
使えるようになることだ。数学をある程度やれば自然に身につく場合が多いが、数学をそんなに勉強しなくても
い以上の四点だけマスターして実生活になじませていけば十分だと思われる。理系にすすまないのであれば、
それ以上に数学をやるひつようがあるのだろうか(logとかの計算を教える必要があるだろうか?)

ざっくり言えば、高校までの(できれば大学初年度くらいまでの)数学と物理でならったことを日常に的確に応用できれば、論理的思考力の運用は完璧になる。
過剰に数学をやる必要はないし、学んだことをうまく応用できるようになれればよろしい。

一人でいる時間の質を上げる

一人だと何もできなくなってしまう人間がいる。それは論外だ。
よりよい人生を建設するための第一歩は、孤独になっても大丈夫だという絶対的な自信を作ること。これが究極のセーフティーネットになるだろう。一人になっても大丈夫感をもっていると、他者に対して余裕を持って接することが出来るようになる。そうすることで他人に振り回されることも少なくなり、他人に認められようと必死になって醜態をさらすリスクが減るだろう。かえって、人間関係が円滑になるだろう。すくなくとも自分にとって必要な人間とそうでない人間が分かるようになる。
そうすることで、一人でいる時間と、他人といる時間の密度を両方とも上げることが可能になる。

つまりは、自分の長所と欠点を百パーセント利用できるセルフマネージメント力である。

まずは、自分の長所と欠点を百パーセント利用できるセルフマネージメント力である。これが第一段階。
そして、他者を自分の為に百パーセント利用できるようになるこれが、第二段階。
学校があっての自分、会社があっての自分ではなく、
自分なっての学校、自分あっての会社、自分なっての他者である。自分のしあわせの為にいかに自分以外の存在を利用するか。良い人生とはそれを最適化することである。

ざっと自分の人生を振り返ってみる

人と会ったあと、極端にテンションが上がったり、下がったりする。毎日人とあってると正直全く仕事にならない。
一週間に一度人と会うくらいがバランスとしてはちょうどいい。
子供の頃と、十代の頃に極端に遊ぶことを制限したの歪みがいろんなところに出てきてる。他の人が空気を吸うように当たり前にできることが、必死に頑張っても全くできないという状況が生じるので、社会生活がなりたたない。
最初の違和感は、中学受験直後。受験も終わったし、さあ遊ぶぞという段階になったのだが、学校の同級生と全く、ノリがあわない。こちらとしては、小四以降できなかったことをめいいっぱいやるぞという状況にも関わらず、他の人間は二年間遊んだ上で次の段階に進んでいるわけだから全くどうにもならない。中学に入って周りの精神年齢がガクっと下がったので、中一の頃は割と楽しく過ごせた。だが、中二になってから周りと話すことに困難を感じるようになった。仕方なく、徹底して勉強をするようにした。休み時間とかでも勉強をしていれば人と話さなくてもいいので気楽だった。もちろん勉強をしなきゃという強迫観念的なものもあった。進学校だったのが幸いし、それでもおおきく浮くことはなく、がり勉仲間のようなところにうまく入り込んで、学校ないでの生き残りを図ることが出来た。高校に入って、勉強の中に閉じこもる傾向がさらに過激化。塾に自ら志願しいくようなり、放課後はその予習に当てるようになった。もちろん塾仲間が大量にいて、放課後遊ぶことも多かったので、孤独だったわけではないが、大いに不満があった。だが、できるだけそこに意識を向けにようにしていた。いったん立ち止まってしまえば、二度と前に進めなくなるだろうという予感があったからだ。そして、それは後におおむねあたることになる。
ともかく、高校三年間は時間さえあれば勉強するという姿勢を取るようにした。高校一年の時に一週間期限でビデオを借りたが、 見る暇がなかった。勉強で忙しく、二時間の時間も作れなかったのは今から思うと信じがたい。暇な時間を作らないために勉強するという感じだったので、ほとんど成果は上がらなかった。高二の秋くらいになってようやくかみ合い始める。物理と数学を本格的にやり始めたのが大きい。そして、徹底して深く理解するという方針をとったのが大正解で、自分の実感としておおきく学力が伸びた。このあとの二年間で強靭な思考力の基礎がつくられたように思う。大学の物理や数学の本にも手を出し、大学受験が終わることには自分でも驚くほど伸びていた。だが、小6の夏から高二の夏くらいまで形だけの勉強をしていただけで、ほとんど頭がよくならず、むしろ悪くなっていたので、非常に大きな焦りを感じていた。それをなんとかとりかえそうと、受験が終わったその日から、一日十時間くらい物理と数学をやるという生活が始まる。
その生活を大学一回生のゴールデンウィーク前まで三カ月くらいつづく。この間、ライトノベルと漫画を読むようになった。漫画や小説に病的にはまる性質があり、漫画をよむと漫画のことしか考えられなくなり、生活が崩壊し、学力が崩壊するのは明らかだったので、高校二年、三年の間。徹底した禁欲主義をとる、そレが大当たりしたのか、ともかく大学受験はうまくいった。ところが、大学に受かって勉強が順調に進めば進むほど、一つの壁にぶつかって来た。起きている時間をほぼ完璧に運用し、最大限学力をのばしつづける生活を二年近やっていた状態が続くと、過去における取りこぼしが気になるようになってきた。つまり小6のころから高二の夏までの間、もっと勉強しておけばよかった。という考えが頭の中をもたげてくるようになった。最大限のスピードで一日十時間勉強するという生活を一日も休まずに行っていたので、さらなるのびしろを過去に求めざるを得なくなっていた。今これ以上のばすほうほうが存在しないが、もっと伸ばす必要性を感じていた。こんな状態が続くはずもなく、勉強が出来なくなった後、リアルの生活が完全に崩壊。観念的な世界にさ迷うにようになった。
三回生になって化学に進んだのは、とにかく手を動かして
普段の生活に現実感を取り戻したかったというのはあった。だが、 化学はあまりにもつまらなく、しんどいだけだったので、すぐにいかなくなりより、リアルを放棄する傾向が加速した。このころちょうどニコニコ動画のアカウントを取得。他に居場所を感じることがなかったのもあって、一日八時間くらい動画を見る生活を一年半くらい続けることになった。途中、何とか手を打とうとして、人と会うのに必死になったりインターンにいったり、塾講をしたりした。
結果として、コミュニケーションの試行錯誤はかなりできたが、精神的には極めて不安定な状態になり、勉強をほとんどできなくなった。毎日のように自殺することを考えていたようにおもう。人と会った後の脱力感が半端なく、人とあった日は、徹夜するか十五時間ねるかという極端なことになっていたので、学校にまともに行けない状態がつづいた。 たぶん人と会うことから徹底していれば、この状態は避けられた。そして、それが可能なのは数学系だったと思われる。つまり、数学系の人間以外と高校の時の友人の一部以外とはあわずに、数学とニコ動だけの生活をしていればよかった。その方が精神的にも健康で能力が伸び、その後の人生もうまくいっただろう。このころが決定的な分岐点となる。そのご四回生と院生生活で、少しづつ精神は安定化、視野も広がり、頭も働くようになり、できることが増えてきたが、今度は周りと決定的に乖離するということが起きてきた。自分がもがいている間にもまわりの人間は次のステージへと進んでしまう。ほとんど話の会う人間がいなくなってしまった。昔の反省から、人と無理に会おうとはせずに、一人でいることを徹底して肯定的にとらえざるを得なくなった。一人でできる趣味を極限まで追求することで精神の安定と、人生の幸福をもたらそうとすることにした。ニートになることを覚悟で大学院を放棄、数学をやることにした。数学は一人でひきこもっていることがメリットに働く面が大きいので、あまり自分をおおきく変えずに次のステップに進めるだろうもくろみがあった。なんとか一定の精神の安定を勝ちえたのは親の経済力によるところと自分自身が最低限の頭脳の明晰さを備えていたのが大きい。どちらかがかけていたら、一生鬱屈したまま人生がおわっただろうし、もうとっくに自殺していたかもしれない。経済力信仰と地頭的な意味での能力至上主義に対する信奉は今後さらに過激化するのである。
ひとことでいると自らの金と頭脳は命と人生を救うのである。 今後はさらに能力を伸ばし、効率的に時間の密度を上げようとする行動がもっと極端になっていくだろう。いままでの取りこぼしを全てとりかえそうとするくらいの過激な生き方をしても自我を保てるという確かな自信が今の自分にはある。

反論することの重要性

人と会うときに、どうしてもだまって聞くがわに廻りがちだ。
あとあとこう言っておけばよかったとか、こういえば論破っできるのではないか?とか考えてしまうので、徹底してストレートにその場で発言するようにしたい。日本社会では失言が許されない風土があるので、ミスをせずにいいたいことを的確に言えるのにはかなりの訓練がいるように思う。あまり人と会うチャンスが少ないので、親しい友人とのコミュ二ケーションの場で、そういった基礎力を徹底して鍛えたい。

数学をやる

そろそろ本腰を入れて数学をやろうと思う。多分今のやり方で、おおよそ正しい勉強法が出来る状態だと思うし、
長期にわたって継続して勉強できる状態になっていると思う。