ブログを始めたきっかけの一部として、知り合いの遺書を読んだことは大きいだろう。
そいつは、かなり優秀な人間だったらしいし、
いろいろなことをとことんまでやるタイプだったらしい。
遺書の文面を読んでみて、シンパシーを感じることが多かった、というよりも、これは昔の俺と全く同じじゃないかとさ得思ったほどだった。もちろん、そこまで親しかったわけではないし、深い話はほとんどと言っていいほどしなかったが。
今日死ぬとしたら、何をいい残したいだろうか?
明日死ぬとしたら、今何が出来るだろうか?
ここ数年はそれを頭の片隅に置きながら生きているが、前述の経験を経てより、強くこのことを意識するようになった。
今日死ぬ、あるいは過去のある時点で死んでいたかもしれない、ゼロになっていたかもしれないという、ところから、ボトムアップ式に積み上げて、いろいろな事が考えられるようになったので、一種の強烈なハングリー精神を持つことが出来なくなった。死んだら楽しむことが出来ないので、楽しいことを妥協せずにとことんまで追求しなければならない。年を取れば能力が落ちるのだから、自分の能力が頭打ちになったとしても絶望せずに年齢にあわせた生き方をしていく必要を感じる。
たとえゴミくずのような文章であれ、算数レベルの研究成果であれ、幼稚園のお遊戯レベルの曲しか作れなくても、すこしでも多く、少しでも高いレベルのアウトプットというか、自分の考えてきたこと取り組んできたことの痕跡を残しておかなければならないと感じる。
もう、自分には時間があまり残されていないだろう。
創造性や思考力をMAXに発揮できる時期はもう残り数年かもしれない。その間に、成果を出せなければ、残りの人生は今まで以上にぱっとしないまま終わるだろうし、それが経済的な成功と結び付かなければ、その日生きることすら危うくなるかもしれない。たとえ生きることを強く望んだとしても外的要因によって人生を強制終了させられるかもしれない。ここまで、考えた時に、特に経済面では何不自由のない生活を送っていたにも関わらず自殺することを選んだ知人、友人たちに対して強い憤りを感じるような二なる。人生なめんじゃねえよと。お前みたいなやつが死ねばいいのだ(もう死んでしまったけれど)
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