2012年1月4日水曜日

もし、死んでいった人間のために何もすることが出来ないならば、自分たちのためにその人たちの死を利用するしかないのではないか?

死んだ人間の人生は確定してしまう。
確定した人生に生きのこった我々が出来ることが
すくなくとも、科学的(いままでの経験をもとに論理的に考えて飛躍のない範囲内では)存在しないはずだ。
残された人間が何かできるとすれば、それは生きている人間のたまに何かをすることだけだ。主観的に考えるならば、自分自身と自分にとって利用できる周りの人間のために人の死を利用すべきた。
そういう選択枝しかない以上現実的にモノの見られる人々は人の死を自分の為に積極的に利用しようとしてくるはずだ。だから、人間の死に対し何かきれいごと「死んだひとのたまに」とか「〇〇がよろこぶか」などという発言をしてきた場合には強く警戒しなければならない。また、純朴にそういうことを言う人もいるので、そういった発言にむやみに突っ込んで反感を買うことも避けたい。そういう場面で反感を買うとその人が生きている限り反感を持たれることになるだろうから、特に気を付けなければならない。だが、必要以上にトンチンカンな理論をプッシュして、自分の思考が侵される危険性があるならば、そういった人々とは距離を置くか、距離を取るのが難しいとすれば、反感を買うのを承知の上で徹底した反論に出ざるを得ないだろう。

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