親戚との集まりで、珍しく積極的に発言するようにしてみた。
相手の求めてるものを読み切った上で、相手に対して心地よく入っていく範囲内でかつ自分の言いたいことを、的確に言葉を選び、絶妙なタイミングで話す。
いままで、コミュニケーションにおいてこのことを強く意識してきたが、ある程度の経験値を得て来たので、あまり意識を強く持たず、感覚に頼って面白くなるように心がけた。昔は、自然に話したら全くトンチンカンになったので、その反省から徹底して考えるという方針を取らざるを得なかったが、それは自分の人格において、あるいは人間の脳の仕組みにとって自然な発話極めて無理を強いるものであったので、その負担を下げ、少しずつ「何も考えずに」話すようにする。そう、自転車に乗りたての人間が補助輪をゆっくりとはずす感じだ。
考えずにしゃべっても失敗しないという経験に裏打ちされた強固な自信が必要だったが、 その自信からおおきく外れない程度に飛躍した話し方に加え、さらなる高いレベルの自信を獲得するための経験値を稼ぐために、許容される範囲であえて失敗に近い踏み込んだ発言をする、失敗できる範囲の見極め、という目的意識
これらのことを踏まえた上で親戚との会談に挑んでみた。
相手は、こちらの発言に関心してくれているように見えたが、相手は自分よりはるかに年上の人間だったことを考えると、果たしてどこまで本心からうなずいてくれているのかは、あるいは反発されていないかは、疑問の余地が残るものであったし、相手の反応を注意深く観察していたが、現時点での自分の読みとり能力では、否定的なニュアンスを見つけることが出来なかった。否定的な印象を持ちながらも否定的なニュアンスを相手に悟られないスキルは普段から意識的に身につけているので、その効果の大きさを常々認識しているし、もし相手が自分よりも数十年以上長い人生経験を通してそれをより高次なレベルまで身につけているのだとすれば、それは果てしなく恐ろしいことだと言わざるを得ない。自分の認識できる世界が主観的な意味で世界の全てであるとするならば、そこに観測不可能なブラックボックスが存在していて、そこに自ら働きかける必要に迫られる(今回の場合は実験であり、必ずしも必要に迫られたわけではない。いや、将来に対する漠然とした(ボンヤリ=ダザイ(1909~1948)のことはどうでもいいが)からそれに対処するための布石として必要だった。(こうは書いたけれども、一応、自分の被害妄想的な傾向による思い込みかもしれないという思考の余白を残すことで別の選択肢があったかもしれないと考えることで、あるいはこれから先に視野の狭さによる不合理な選択を取り、それが避けようがなく必然であったと思い込んでしまうことに対するけん制としておく。「詰将棋や数学とは違って現実空間に属する判断のほぼすべて(たぶん無限濃度)、は論理的に一意定まることはないので、厳密には避けられない判断というものは存在しない」ということを、わざわざこんなこと言うまでもないし、今までも繰り返し指摘してきたことを分かりながらも、あまりにもここら辺を勘違いしている人が多いように思うので、あえて指摘しておく))
ということはなかなか大きな恐怖である。
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