2012年9月27日木曜日

究極の効率力

論理的思考の徹底
大元をシステム化し
自動的に無駄を省くシステムを

2012年2月24日金曜日

統合失調症に対する考察

情報が次から次へと湧いてきて、その情報の間の関連性が付けられなくなっている状態。これが、統合失調症お本質ではないか?思考力が働いている、間は、情報を整理して、自分の思う方向へまとめることが出来たり、記憶を引き出すまでの忍耐力を発揮して、
目標がはっきりしないこと、忍耐力が極端に落ちている状態。これが統合失調症の本質ではないか?
 

体制に従順になることで、大人になることは可能だろうか?むしろ大人になるための成長過程を遅らせるのではないか?

大人とはなにか?子供とは何かということを追求していくと、大きな矛盾にぶつかる。
早く大人になることが、十年後大人になることを阻止する、
 子供っぽい人間が、まともな大人になることもある。子供や大人という性質は、もっと根本的な性質が表面的に表れたものにすぎないのではないか?もっと根本的な要素に分解して、その要素について、考えないと、いけないのでは?

また、大切な前提として、理想の子ども、理想の大人というものは現実空間には存在しないことがあげられる。

ゼロベース、芸術ベース、意識すること

勉強の基本は重要な点に半ば強制的に意識を向けることにある。
これに、大きな落とし穴がある。
たとえば、英語の勉強する時に、重要なポイントたとえば、イントネーションなどを意識しすぎた場合、発音問題は完璧に解けるようになったとしても、実際に英語の発音は滅茶苦茶になることがあり得る。人工的に的を絞って、習得するのではなく、ネイティブの発声を完全にコピーすることを目指さなければならない。人工的に細部を意識することは大きなマイナスになるだろう。「何も考えずに」一切の予断を捨て、勉強する必要がある。多くの場合、これとは正反対の方向性の勉強をする羽目になることが多いだろう。

芸術性の追求

芸術性の追求が、優秀さの枠を超える、道しるべになる。

ハングリー精神の限界

ハングリーであることは必ずしもプラスに働かない。
すぐに手に入る満足に飛びつきがちになってしまうのではないか?
むしろ、徹底して満たされていることが深いことをやるのに重要なのではないか。

すべてのことを経験するわけにはいかない。時間は限られている。

経験をたくさん積むよりも、経験を一般化して、利用する方が重要。

2012年2月17日金曜日

暴力とちから

システムがしっかりとした現代において、暴力をふるうメリットが極めて少なくなってしまっている。ケンカがいくら強くなっても、法律には勝てない。また、頭がよくなれば割と優位に立てる場合も多いが、いくら頭がよくなったところで制度に阻まれることは少なくないので、限界はある。どうしても閉塞感というか不毛感は残り続けるものである。

人間以外に心のよりどころがあると、人間に対して余裕を持って接することが出来る。

人間に依存しすぎるのは危険である。自分の状態が不確定な他人に左右されやすくなるので、不安定な状態になりやすい。心のよりどころとなるものの一つに、人間以外のものを持っているとかなり心強くなる。

企業に勤めている人々はみんなとは言わないが極端に他人のことを悪くいうタイプの人間が多い。

ストレスが高い状態にさらされているからか、とにかく人の悪口しか出てこない連中が多い。人間関係は少ない方が基本的にいい。多くの人間と関わっていると、よほど対人スキルが高くない限り圧倒的なマイナスになる。

なんだかんだいって、金持ちの坊ちゃんは優秀だと言わざるを得ない。

金持ちのボンボンは人間のクズのように言われることが多いが、実際ふたを開けてみると、ずば抜けて優秀な事が多い。いわゆる二世が親の力だけで、上に行くように言われることが多いが、本人に一般人では到底届き得ない能力を持っている事も重要な要素になっている。親が優秀であれば、当然子供はその背中を見て育つ訳だから、究極の英才教育を受けているようなものだし、環境がよいので、能力を上げやすいのと、鬱屈しにくいので、性格がよくなるなど、あらゆる面でいい部分がある。そういうこともあって、金持ちで能力がないやつは本当に救いようがない。

怒りを全て能力に変換できるか

人間の負の感情は基本的に足を引っ張るだけで、プラスにならないが、負の感情自体をいい方向に変えるのは難しい。負の感情を強烈な推進力に変えられるテクニックが欲しい。良い例ではないが、ヒトラーやゲッべルスなどは負の感情を過激な行動力に変えている。また、他人の負の感情をうまく誘導し、利用するという面で、テクニカルな側面では学ぶべきことがある。

恐怖で萎縮させられるのが当たり前だという感覚をいち早く捨てるべき

極端に抑圧されて、萎縮させられる状態だと、確かに、必死に頑張らざるを得ないのだが、それはかなり不健全な状態だと言える。監視がキツイ間は頑張るが、人が見てないところでは、とことんまで怠ける習慣がつく。そして、そういう状態が慢性的に続くと、圧力をかけられても頑張ることはできなくなり、やがて、廃人になる。

2012年2月10日金曜日

決断力の重要性

たいして重要でないことがらについての意思決定速度を
極限まで縮め、ほかの重要な問題に取り組む時間をたくさん残す。
決断しなければならないことがらをできるだけ少なくする

羽生善治さんのすごさ

子供の時に天才だった人間はごろごろいると言えば、言い過ぎかもしれないが、それなりの数いる。だが、そのほとんど、というはほぼ全員はぱっとしない人生を送るか、場合によっては普通以下のレベルに落ちてしまう。
羽生さんは子供の時に天才であっただけでなく、四十を過ぎても最前線を走り続けている。
これは、本当にすごいことなんだろうなと思う。
年齢に応じて柔軟に生き方を変えていくことと、
走るペースを抑えて、自滅しないようにすることが
カギなんだろうと思う。
あとは、好奇心を失わないことだろう。

2012年2月8日水曜日

権威主義から離れ、自分の頭で考えることのむずかしさ

自分の頭で、状況にあわせて的確な判断が出来るようになるには、よほどの運がいいか、頭がいいか、時間が沢山あるかなど、かなりの好条件がそろわないと難しい。多くの人は権威の壁を乗り越えることなく、時間を無駄にし続ける。

追い詰められることは長期的には大きなマイナスになる、slow and steadyが最後に勝つのはガチ

継続することが、何よりも大切。
人格がゆがまないよう程度に努力量を抑えることが生死を分けるくらい大切。
必死こいて頑張って来たのか知らんが、結構偉くなった人でもあらゆる意味で余分な醜態をさらしながら生きている人間は多い。 特に知的なレベルだけ注目すれば特ひどい。どうしてここまで頭が悪くなってしまった。。と残念な気分になることが多い。

ある目的を達成するために、その分野のことをやるのは必ずしも近道ではない。

勉強が出来るようになるために、勉強すること
仕事が出来るようになるために、仕事をすることは必ずしも地下ではない。
大幅に仕事の時間を削って、地頭力が上がる遊びやどうやって仕事をすればよいかを考える時間をつくるべきである。
やり方次第で効率はけた違いになるからである。
勉強時間が半分になっても効率が十倍にできれば、圧倒的に有利である。また、勉強を続けるためには、勉強以外のことができないと不利になる場面が生じてくる。
例えば、生活力や人間関係力は勉強の能力そのものとは関係ない部分も多く含んでいるが、もしそれらの力がなりなければ、勉強をするための環境を著しく悪化させてしまう可能性がある。
極端な場合だと、勉強のしすぎで倒れてしまった場合には、そのあとまったく勉強できない状況で過ごさなければならなくなるわけだから当然大きなマイナスになるのである。
優秀な人間が闇に消えていくことが多いのも納得がいく。

2012年2月7日火曜日

ゲームの有効性

ゲームが得意な人間には頭の回転の速い人間が少なくない。
ゲームをやることを必要以上に悪くとらえる考え方があるが、ゲームにのめりこむことで身につく能力も多い。受験勉強レベルの勉強や、多くの事務的な仕事は、ゲームと比べてもより下位の能力しか使わないものが多いから、ゲームをするだけでも、それらの作業に必要な地頭力を引き上げることが出来るだろう。むしろ、ゲームを有効に生かすようにしていきたい。

2012年1月25日水曜日

ブログを書くことにそろそろ限界を感じるようになってきた

できる限り思想的発展を目指してブログを書いているつもりだが、大した発展しは見込めていない。そろそろ勝つための理論を放棄し、全く別の理論を容易するべきかもしれない。
競争原理はもはや飽和状態にある。

競争することの限界

あまりにも当たり前のことだが、競争に勝てなくても、幸せに生きることが出来るのではないかという疑問がほんのわずかでも頭をよぎれば、
競争するモチベーションは大きく揺らぐことになる。
ゆえに競争心だけを行動原理にするのは極めてリスキーだ。
たとえ、純粋に競争に勝つことだけに目標を置く場合でも、競争するという行為以外の引き出しを増やしておくことはしておいた方がいいどころかやらなければならない種類のことであろう。

他人と会話することに意味はない。強度があるだけだ。

人と話すことで得られる単位時間の情報の質、量は決して多くない。
本質的な情報を得て、利用するなら、ネットや本で情報を得て、徹底して自分の頭で考えた方が有利だ。
人と会話することは生産性を高めることとは別のベクトルで意味を持つのだと割り切った方がいい。

出る杭が打たれる世界、出ない杭が引っこ抜かれる世界のはざまで

出る杭が打たれる世界と、出ない杭がひっこ抜かれる世界がある。社会の中で生きていくにはどちらかを選択する必要がある。自分の適性と社会のしくみを理解したうえで、どれだけ早くどちらの世界で生きていくかを決断し、その選択した世界で生きていくためのスキルを全速力で身につけなければならない。それが出来ない人間は死ぬ。最低でも社会的には死んでしまうであろう。

2012年1月24日火曜日

人に好かれるためにある程度の努力をすること

少なくとも人に好かれるためにある程度の努力をすることを肯定的にとらえられる余裕を持つことが、善悪の問題とは関係なく、徹底して自己中心的であろうとする場合ですら、必要条件になってしまうのではないかという疑問を、たとえ他人を顧みずに生きていくとう選択をし続けるとしても、持ち続けないといつかえらい目に会うのではないかという危機感を持つべきたという思想を持ちたいと思わなければならない。

少なく読み多く考えることを徹底した先に何があるか?

読書は手放しに正しい行為だと決めつけることはできない。むしろ寺田寅彦は言ったように、「少なく読み多く考える」ことを徹底すべきである。
多くの場合読書は害になる。人生において利益を得られるピンポイントな範囲だけを狙って読書はなされるべきである。

無能な人間との終わりなき闘い

たいていの人生は、無能な人間と関わる機会を多く含んでしまう。いくら才能に努力を加え優秀な人間になることが出来たとしても、無能で足をひっぱろうとする人間と終わりなき闘争の日々に明け暮れる人生を歩まなければならないかもしれない。だから、1つの発想の転換として、
無能な人間と関わらない、生き方を目指す方法がある。
問題を解決するよりも、
問題を消滅させる能力
問題を発生させない能力
これが、幸せな人生に必要な能力である。
百戦百勝よりも〇戦百勝を目指すのが、
人生の定石であるべきだ。
このことを実現するために努力を惜しむべきではないし、
この世界のほぼ全ての努力はこのことのみに集中して注がれなければならない。

論理的に間違っていることをわざといって、相手を扇動する

数学など論理を使う作業をやりこんだことのある人間なら、相手の話の論点のすり替えにきずいたり、論理的に矛盾のない反論をしたり、スルことは比較的たやすい。もちろんほとんどの人はそれすらできないわけだが。
だが、そこから次のステップに進む必要がある。あえて、論理的におかしいことを効果的にいうことである。とくに論理的に考える能力にない相手に対しては正論を言うよりも、うまく論点をすりかえ続けて、丸めこんでしまったり、時には感情をあおり、自分の持っていきたい方向へ誘導する。もちろん、これを使うのは圧倒的に格下の相手のみに限りべきである。論点のすりかえに気づける相手になら反論されて終わりだし、この手の手法を使っている事に気づかれると、不信感を持たれてしまう可能性がある。
大局的に見れば、相手を打ち負かすよりも、信頼を得ることのほうがメリットが大きいのは言うまでもない。そういう意味では、真摯である人間は強い。自然体で信頼関係をつくって行ける人間には勝ち目がない。真摯さというものはあるていど、元から持っているものだがら、真摯さのかけらもないひねくれた性格の人間には真摯な人間のまねをしようとしても限界がある。真摯な人間に勝つにはどうすればいいか?
徹底して実力を蓄えること
徹底して悪になること
真摯な人間はどうしても小さくまとまりやすいから、
スケールで圧倒することで木っ端みじんにすることができるだろう。

学校で活躍できることの延長に、会社で活躍できるという結果があるわけではない。

可能性の問題として、学生の頃は優秀だが、その後ろくでもない人生を歩む場合もあれば、不登校の人間が、社会人になってから無能になるケースがある。

いまさら、人には聞けない、という風土では、育つ人材のレベルがしれている

知り合いが、勉強に関することでこの年齢になったら恥ずかしくて基本的には周りに聞けないと言っていたが、それでは、あまりに向上心がかけていると言わざるを得ない。
知識がないのを馬鹿にするタイプの人間とは縁を切るべきである。そういった人間は、往々にして、能力には色々な分野があって、分野よって到達度にバラつきがあるのは当然であり、知的能力という1つの能力があると思い込んでいる可能性がある。

自信がないのは甘え。自信がないのは無能の証であるし、たとえ自信満々であったとしても有能であることの証にはならない。自信があることは、有能である人間になるための必要条件でしかない。それも初歩の初歩の段階での必要条件である

自信がない人間は、自信のある人間の手の平の上で手の平の上で転がし続けるだろう。少なくとも、自信がない人間は、周囲の状況を把握する能力が極めて低いということによるものである。また、たとえ自信があったとしても、それは状況把握能力が高いことを意味しない。単なるバカというか世間知らずである可能性がある。自信のある人間の大半はこのタイプに入るかもしれない。状況を把握して、自分の目的の為に状況をすばやく変えて行ける能力が高く、それを自信の根拠としている人間のみが有能な人間になる資格がある。たとえ、1つの分野に秀でた才能があったとしても、この能力を一定以上もっていないと、思わぬところで足元をすくわれるリスクを常に抱えることになる。
一方で、状況把握能力と行動力が完璧であったとしても、ただちに世界に対し何か意味のある仕事ができるレベルの有能さを持っているという証拠にはならない。なぜならこの能力が正しい方向性で努力をすれば、数年単位で身につく能力であり、一度身につけてしまえば、ほぼルーティーンワークになり、その後の発展は純粋に能力見られないからである。組織の上層部にいる人間がそこまで優秀ではなさそうに見えるのは此処にある。この種の能力をマックスまで上げていれば、跡は運と数十年の積み重ねで、トップクラスの地位を手に入れることができるわけである。だがら、それが純粋に脳の使い方の成長を意味するのではないことは自明である。本当の意味で常に成長し続けるにはいままで越えたことのあるハードルよりもつねに高いハードルを越えようとしなければならない。
もちろんハードルの前で立ち止まってしまうようでは論外である。そういうタイプの人間は死んだ方がマシだとまでは言わないが、人生をどぶに捨ててるように思えるし、極めてもったいないことである。だが、ハードルを越えられない人間にも最低限の人権を与えることは、底辺層のボトムアップをするというだけでなく、トップレベルの人材を育成するためにも重要である。
長期間での成長をさせつづけるには、緊張で張り詰めた状態よりもある程度の余裕をもたせ(緊張状態は長続きしないからである)、たまには、新しいやり方に挑戦する必要がある。失敗したら死ぬという状況を与えるよりも、失敗しても死ぬことはないという安心感を与える方が、結果的には、優秀な人材を生産しやすい土壌が出来るだろう。もちろん怠けてしまってどう仕様もない人間も生まれるかもしれないが、トップレベルの人材育成には、全員を育てるという発想を捨てる必要がある。超ハイレベルな人間が生まれるのは確率でしか語ることができない。ゆえに、その確率を高める、土壌をつくる必要がある。その過程で、どう仕様もなく無能な人間が大量に生まれるリスクがあることには目をつぶらざるを得ない。優秀な人間が育てば、無能な人間がかなり大量に発生したとしても、社会全体で養っていくことは可能である。むしろ、普通の人間しかいない社会の方が、経済基盤としては危うい。別の社会のトップに有能な人間がいた場合、滅ぼされる危険性すらある。

学校の成績だけで人間の価値が決まらないのだとしたら、学校の成績や学校のシステムそのものが無意味になるんじゃないか?

2012年1月22日日曜日

後悔すること、反省すること、反復すること

後悔することはよくないこととされることが多いが、うまくやれば、能力向上の大きな原動力になりうる。後悔は、ある意味で、失敗に対する考察を反復することと同じであるから、反復のしかたを工夫すれば、失敗を避けるための方法論や成功するための方法論を得ることが出来るだろう。後悔することに消費してしまう時間と、後悔する過程で物事にたいする考え方の良いスキルが身につくという二つの要素のうち、後者が勝れば、かえって、大きな能力向上につながる。トラウマを抱えた人間が長期的にみて、ずばぬけた仕事をすることがあるのは、これが原因かもしれない。

病的に反復することに固執する性質を持っていることが天才の定義であるといってもいい

天才という言葉がよく用いられるが、天才と呼ばれる奴らがそんなにすごいのかは、甚だ疑問である。
天才と呼ばれる人々は、反復することに極端にこだわる性質を持っているように思う。その性質は一般人から見るとものすごく努力しているというように見えるかもしれないが、実は、そうせざるを得ない性質を強く持っているにすぎないのではないか?極論すれば、そうした反復した作業をしている方が「楽」なのであり、そうした反復から外れたことをやることに強い苦痛を覚える。反復することに執着するという性質を持った上で、うまくそれを上達することを考えながら反復することを年単位でしていけば、常人かからすればその分野についてはとんでもない状況に行ける。
天才の構造というのは冷静に分析すれば当たり前の結果でしかないので、普通の人であっても天才のまねはできる、というか、普通の人がある種の少し変わった性質を持っていると天才になってしまう、というのが、天才と呼ばれる人々の本質ではないか?
バットの素振りを千回毎日やるのは周りから見れば、病的な努力に見えるかもしれないが、本人にとっては、振り方を少しずつ工夫するなどして、かなり楽しみながらやっている可能性はある。普通の人から見れば短銃ん作業でも、本人の世界の中では、極めてにゲーム性の高い作業になっているかもしれない。音楽、将棋、学問、芸術、スポーツ、いろいろな分野があるがどれも、広い意味での反復を要求され、その反復を飽きずに常に工夫しながら、より質のよい反復が出来るようになることが、根本的に重要な能力になっている。
普通の人が天才と同じような種類のパーフォーマンスを発揮するのは比較的簡単である。好きなことに固執し、そのことについて病的なくらい反復するのである。ただ反復するだけでなく、常にそこから何かを見出そうとする。すると、抽象化された能力上達の過程を体得することができる。1つの分野を極めた人間が他のことにも才能を発揮することが多い理由もこのあたりに存在する。
反復することに固執。
反復を工夫し、常に上達する。
上達のシステム自体を身につける。
反復する分野が社会的に価値が高い分野であれば天才と呼ばれるし、そうでないにしても、反復を通した上達システムを他の分野に応用できれば、優秀な人材ということになる。
学生時代に部活動が推奨される理由もここにあるかもしれない。
運動や、文化系の活動をしてもプロになるのでなければ社会人になったら何の役にも立たないように見えるかもしれないが、興味のある分野で徹底して反復する中で得られた抽象化された上達システムが全く新しい仕事に対しても応用できるのである。

2012年1月21日土曜日

机に向かってやる勉強は、勉強全体から見るとごく一部

勉強は机に向かってやるイメージがあるが、実際にはそれ以外の部分がかなり大切である。全体的なイメージをつかんだり、アイデアを思いついたり、全体像を検証したりするのは、散歩したり、寝転んだりして、ノイズの少ない環境でやった方がいい。机に向かった何かするのは、具体的な形に落とし込む作業をする段階でやればいい。

2012年1月20日金曜日

自動反論機械を作りたい

論理的に誤りのある主張に反論するのは、もはや流れ作業になりつつある。反論に用いる思考力もさほど高度なものでない割に、感情的にエネルギーを使うので、それに時間を割くのはもったいない。誰か他の人にやらせるか、自動的に機械がやってくれるとありがたいのだが。言葉で記述された主張に対し論理的な誤りを自動的に行うプログラムは作れないだろうか?人工無能のようにマンパワーを使うしかないだろうか


普通に話す言葉のレベルでそれをやるのは難しいだろうか?
論理的にはそこまで高度でないが、やはり多岐にわたる話題に対して相手の言ってくることを論破しようと思えば、全ての話題をコンピュータに覚えこませるしかないか?
最低限の論理演算だけ覚えさせて、あとは自動で言葉を覚え、ゆくゆくは様々なジャンルで議論する力を付けるようにできないだろうか?

読書は本当に必要か?

学生にはもちろんのこと社会人に対しても、読書というものが強く勧められるケースが多い。だが、ちょっと待てよ、と言いたい。本当に本を読むことが人生の様々な局面でプラスに働いてくるのだろうか?人によっては、本がさほど好きでもないのに善行をつむつもりなのか知らないけれど、頑張って本を読もうとする人もいる。
有名な政治家等の中には本を一切よまないというタイプがいる。

深さの追求。

頭の回転数を上げることはさほど難しくない。難しいのは思考を深くしていくことだ。

やる気が出ないときの対処の仕方で大きく違ってくる

スランプの脱出がうまいかへたかで、成功するかどうかがほぼ決まるといっても過言ではない。
つまずいて動けない間は完全に止まっている間は全く前に進めない、下手するとマイナスになるわけだから競争社会においては絶望的なビハインドになる。
逆におおきなスランプに陥らなければ、それほど調子がよくなくても、それなりのスピードで前に進める者だ。
情熱を燃やして全速力で前に進み続けられるならそれに越したことはないが、そういう人は、すべてのタイミングがうまく合ったごく一握りの幸せな人だけだ。そういう風になれない大多数の平凡な人々は、無理に頑張る必要はない。黙々と淡々とやるべきことをやっていけばよい。それでも、情熱を燃やして物事にとりくんでいるときに数割以上のスピードはでているはずだ。特に高度に頭を使う作業であれば、一見冷めた姿勢の方が却って能率的にことがすすんでいくし、エネルギーコストもすくないので、長期の継続性が期待できる。燃え尽きて動けなくなる可能性も少ないだろう。もちろん、全力で走れる時にはブレーキをかけない方がいいけれども、そうでないときは、安定した低速度でチャンスをうかがうとよい。

2012年1月17日火曜日

スポーツをすることの重要性

定期的に運動しないとだめだな。

単純作業から何を見出すか?

何か重要な事をしようとすれば、単純作業は避けて通れない。たとえどんなに頭が良くて立派なことを考えていたとしても、それを現実世界において応用する段階においては、どうしても、能力Upやスキルアップにつながらない種類の単純作業をこなさなければならないだろう。
だが、単純作業の持つ性質そのものがより時間を有効活用するためのステップになる可能性があることをここで指摘しておきたい。
単純作業がスピードを加速することはよくあることである。

2012年1月16日月曜日

人間の価値は平等ではない。自分が特別だと無理やりにでも思いこむこと。それが、高い付加価値を生産できる人材になるための第一条件である。

うぬぼれは大切です。
競争に勝つには結果を出さなければならない。
結果を出すには自信があった方がいい。自分が特別である。他の人が出来ないことが出来るのは当たり前であるという感覚をもつべきである。
そうすれば、周りにあわせて無意味に自分を抑圧する必要性はなくなるし、 比較的大きな成功をして周りにもてはやされた時におごりすぎることなく、それは必然だと冷静に受け止めて、次の仕事に向けたステップを歩み出すことが出来る。

人を驚かせるということ

人を良い意味で驚かせる方法には大きく分けて、二つの方法がある。
独創性の極めて高いことをすること
独創性はないが、短期間で急成長すること
前者は芸術など
後者は成績が最下位だった奴が急にトップに上がることなどである。
どちらの場合も大きな付加価値を生み出す可能性がある。
人を驚かせたいというモチベーションは、義務感や、人を見返したいという復讐心よりも、より大きな仕事が出来る可能性を秘めている。また、他人から見ても見た目が良いので、多くの人の支持を得られる可能性がある。
イノベーションと呼んでもよいだろう。

2012年1月15日日曜日

言葉がゼロベース思考を妨げ、生産的な思考、行動をすることを大きく妨げる

内容を言葉に変換すること知的コストがかかる。
言葉でモノを考えると、思考スピードが言葉の持つ情報密度(音声認識スピードの限界)に規定されてしまうので、頭の回転が遅くなってしまう。
流暢にしゃべる人間が頭がよいとされることも多いが、思考が言葉に極度に依存している場合、その人間がしゃべるスピード以上の頭の回転速度を保証するものではない
。むしろ、思考速度に言葉が追いつかなくて、しどろもどろになるか、朴訥だが、本質的なことをズバズバ言える人間の方が流暢にしゃべる人間よりも格段に頭が良い可能性がある。人材を運用する上で、上に述べたような視点をもつだけでも大きなアドバンテージになるだろう。

ブログを書いていて思うこと

こういった種類の文章を書いていても本質的な部分の能力は成長しないな。
同じくらいの思考レベルで、いろいろな事がらに口を出し、横に、思索を広げていっても、思考力が深くなることはない。これは、もはや単なる単純作業でしかない。
だが、こうやって文章を書くことで文系的な思索は何の成長ももたらさないことが経験としてよくわかるのは大きい。
文章や発言など言葉を用いた表現からから他人の頭の良さを計るのは難しいと思っていたが、こうやって自分で色々な思考レベルをつかって文章を書いてみることで、 出てくる言葉がどれくらい内容の理解の深さに裏付けられているかということが分かってくるので、他人と話す時に、他人の持っている理解を正確に素早く把握し、それに基づいた行動を即座にすることが出来るようになる。

権威主義にとらわれた人間は成長できない

外見にとらわれ中身を見ようとしない人間は、いつか限界が来る。いくら権威を身につけても、その権威が有効である範囲でしか意味がなさないし、たいていの場合、本質的な能力が身についていないので、権威の適用範囲外で戦う必要が出た時に、ありえないくらいの無能ぶりを晒すはめになる。権威に凝り固まった人々のバカな発言には失笑を禁じえない。これからそういう種類の人間は加速度的に淘汰されていくだろう。いや、すでに淘汰され始めた結果が日本経済の行き詰まりにも密接に関係しているのではないか?日本人一人ひとりがもっている広い意味での権威主義、たとえば、ファッション、音楽、漫画、テレビ番組、など、若者の文化の流行(少し時代と場所がことなれば何の価値も持たない。)
だが、一方で一人の人間が生きるうえでは、ある1つの権威の庇護のもとで一生幸せに生きることも可能かもしれない。その権威の守備範囲が効くなかでひきこもったまま上に登り詰められた人間は、生活には困らないだろうし、一人の人間としては、十分な他者からの承認が得られるだろう。そういう環境で生き延びた年寄りが偉そうにしているのだろう。だが、そういった姿勢で、意味のある仕事がどれくらいできるかと言えば、本来人間の持つポテンシャルから比べるとはるかに少ない付加価値しか生み出せないだろうと思う。それは、本人にとってももったいない話ではあるし、偏った権威を振りかざして、より生産的な事の出来る人間、生産的な事の出来る可能性を持った人間を潰そうとするとしたら、それは極めて遺憾なことであると言わざるを得ない。

日本人は構造的に無能である

久しぶりに変わった本を読もうと思い、スティーブジョブズの本を読んでみた。なるほどと思うことが多かった。
教育システムというか人を育てる風土が日本とは格が違うと感じた。
アメリカにも問題点は多いだろうけど、日本という国は無能な人間を大量に生産するだけの文化しか持っていないという思いをより強くした。

重要な決断はすぐにしない。重要でない決断はすぐにする。

重要な意思決定には徹底して時間をかけるべきである。
重要でない意思決定はできるだけ即決できめ直観を磨き、時間の節約をする。重要でない意思決定は自動化できると望ましい。学校や会社という仕組みは些細な意思決定の自動化(たとえば、いつから勉強を始め、何時に終えるか。あるいは、食事はいつとるか?どんな勉強をするか)がかなり取り入れている。これに加え、さらに自分にカスタマイズした自動化を主体的にやっていきたい。

2012年1月14日土曜日

僕と契約して、戦闘美少女になってよ!

まどマギの評論を斜め読みしていたが、人によっては、まどマギにかこつけて自分の主張をしているだけの人もいる。
まどマギの引用はしてくるのだが、それに関する主張が引用に関する内容と関係ないのではないかとさえ思うことがある。
いってしまえば、まどマギの引用と、まどマギに全く関係のない筆者の持論がお互いに交じり合わずに並んで書かれていくというシュールな光景がみられる。
これは、一種の釣り行為だともいえるかもしれない。
つまり、自分の主張を多くの人に読んでもらうために、
人気のある作品を利用するわけだ。
宣伝行為としては、効果がありそうだから、結果を出すための行動としては評価できる。だが、中身的にはあまり評価できない。読者からすれば、実質的にまどマギに関する知見が増えないわけだから。筆者の主張をまどマギとは独立して読んだ場合と比べて、読後得られるものは
そうかわらないだろう。

2012年1月7日土曜日

長期的に見て本当に意味のあることから順番にやる

時間は限られている。一見頑張っているように見えても何の意味もないことも多い。

息苦しい世界への反抗

全てを破壊する。
世界を根底から覆す概念を発見する。

怒りを徹底して力に変える。もっと上へ、もっと上へ

自分が自分であることをゆるさなにのであれば、上に逃げるしかない。潰されて、下に沈むことだけは絶対に認めるわけには、行かない。自分が自分のままでいることがみとめられないのであれば、最悪でも頂点に登り詰めなければならない。そうすれば、たとえ、自分自身は納得いかなくても周りから潰されることはなくなるだろう。

同じ空間に価値観の異なる人間がいることの圧迫感が半端ない件について

今まででも十分に結果を出してきたはずだが、さらに結果を出せと、周りが迫ってくる。
自分の存在をゆるさない人間と断固として戦っていかなければならない。
全ての人を納得させる決定的な結果をこれからも出していく必要を感じる。そのために極限まで自分の能力を高め、質量ともに完成されたアウトプットをしていかなければならない。

アニメが、成長過程において男女を分ける原因となるか

自分の中の不安や怒りなど負の感情をプラスの力に変える。少なくともマイナスにならないようにする。

負の感情にはまる原因になることをできる限り避ける努力をすることが必要。

言葉で考えることが極端に苦手な人が理系の内容を考えようとすれば、強制的にゼロベース思考をしなければならない。それが時に国語が苦手な人間が数学や音楽などに力を才能を発揮する原因になる。

言葉が思考にどういう影響を与えているかを考察する必要がある。文章以外にも図やグラフを使って思考することはあり得る。

ゼロベース思考でジェンダー論をどこまで語り尽くせるかに挑戦してみた

男女の差
遺伝的要因。生物学的な発生過程が染色体で決まる。
幼稚園に入るまで、親に付けられう名前、買い与えられる服、おもちゃに違いがあるか?親の気分も男女によって差がある?
ホルモンの分泌が脳や体の発達にある程度の影響を与えるかもしれない。
幼稚園に入ってから。幼稚園では、男女が明確に区別される。
ここで、同年代の人間の意識が男女によって異なる。性別が周りとの関わりに違いを生む。見ているテレビの内容。話題。与えられるおもちゃ。昔話、先生の話などにおける、物語の登場人物の男女による振る舞いの違い。
ドラゴンボール。セーラームーン。それに興味を持つ人々。
小学生。男女によって服装、言葉づかい全てに差が出る。
性欲と、次世代を育てる必要がない。環境が全く同じ。純粋に遺伝だけによる違いしか出ない環境をつくる。果たしてどれくらいの差が出るか?
さらに、投薬によってホルモン分泌の差をなくしてみる。体内にいるときから、ホルモン分泌を統制しなくてはいけない。
これらの要素の比べ法律、学校教育の体制的なシステムが男女の差に与える影響は割合的にはかなり低い。(但し、膨大な量の要素が男女の差異を形作るので割合が極めて少なくても、量的には相当ある。)だから、社会的なシステムの変更で男女の差をなかったことにすることはほぼ不可能だろう。社会の広い意味でのルール、システムを考える上で、重要なのは、巨視的な意味で、男女の差異を所与のものとして考える(先に述べた意味で、男女の差異はさまざまな過程を経て形成されるが、社会のルールをどうすべきかという現象論においてろんじるならば、「男女の差異がある」ということを前提条件として、考えるべきである。)
ジェンダー論を、多くの人間がよりよく生きるという目標に応用する場合には、男性がよりよく生きられ、女性がよりよく生きられるように応用する。
社会学は現象論である。無限濃度の集合から有限個の重要と思われる視点で斬り、有限の視点のあいだでの、論理性を考えるからトンチンカンになる。リアルは無限濃度の集合そのものであるから、因果律(論理が成り立つのは)ミクロな視点だけである。有限の視点での論理展開は、時には無限のミクロの世界(論理が成り立つ)とは無関係に進む。常に、より下の階層に戻って、考え、巨視的な理論に修正を加えていく必要がある。

2012年1月6日金曜日

昔、高三の夏休みに一日十八時間勉強したとか自慢していた教師がいた

一日十八時間勉強したとか自分が頭悪いとアピールしているだけなのにどうして気づかんかねー。たとえそれで、いい大学に入れても残念感がぬぐいきれないっすよ。

ほとんどの人は本当の意味の勉強を全くと言っていいほどせずに社会人になる。それどころか人生を終えるところまで一定しまう。

一流大学を出てるような人々でも大半はろくにまともな勉強をしていない。ごく初歩的な頭の使い方も身についていない人が多い

頭の中で、理解を育てること

他人の理解の仕方を学ぶのではなjく、自分にとって自然なプロセスで理解を育てていく。そうすると、普通に勉強するよりもはるかに早く、色々な内容を身に付けられるし、応用力が効くようになる。自然な思考プロセルとは何か、ということについても明るくなるので、他人の考えも、プロセスをトレースすることですばやく理解できる。勉強≒他人の思考プロセスを吸収すること と考えるならば、自分の頭の中で思考システムを回転させ独自の考えを育てる経験をしてくことは勉強することにも役に立つ。思考システムを育てることは普通の意味での勉強と比べて上位に来ることなので、思考システムが育てれば、創作活動や研究も進むし。勉強をするくらいのことなら簡単にできるようになるだろう。

悟った感じの奴て人生楽しいのかな?

極端に頭のいい感じの人間の中に、たまに、悟ったような雰囲気を持っているというか、ひょうひょうとしすぎているタイプの人間がいる。たぶん、たいていのことは自分にとって当たり前で、他の人が面白いと思っている事もつまらなく思ってしまうのだろうな。頭がいいことで手に入ることも多いだろうが、それが、幸せな人生ともいいにくかもしれない。自分と同レベルの会話が出来る人間も全くいないだろうかだ極度の孤独状態になるかもしれない。自分の内面世界をどんどん追求していっていろいろな発見ができたとしても、それすら当たり前すぎてつまらなく感じるのだとした、人と過ごしていても、一人で過ごしていても極度の退屈を味わなければならないかもしれない。
適度に頭が悪くて、ある程度くだらないことにも面白さを感じられう方が人生幸せかもしれないな。

頭の中で内職をする

人と会う時など、自分の作業を大っぴらにできない状況下では、徹底して頭の中で内職するようにしている。思考を深くまでもぐらせ、いろいろな発見が出来る。普段やっている作業の純粋に暗算でできる部分をどんどん進めて行けるので、人に奪われがちな時間を自分時間にできる。
また、それだけでなく、その方が頭が回転している状況にできるので、まわりの情報が自然に入ってくるので、自分以外の要素についてもいいとこどりできる。
頭の中で内職を積極的にやるようになって、二年くらいになるが、これはかなりプラスになる。やり方もうまくなってきた。これからももっとやっていく予定だ。

人と会話することにはさほど大きな意味はないな。

人と会話することの苦手意識はだいぶなくなって来たな。多分の普通の人がそれ以上のコミュニケーションスキルが身についたと思う。
それでも、予想通りだが、大半の人と会話することには何の意味もないな。
ずば抜けて頭のいい人間としゃべるとそれなりに得る者があるが、それでも一人でいる方が得る者が多い気がする。

いまだに、小学校の時に自分よりも頑張っている人間に出会ったことがない

よく、たいへんだたいへんだと言っている人間に出会うが、「は?」と思うことが多い。たいへんだといいつつ、何の才能もないし、何のスキルアップもできてないし、単純に努力してるかという基準で言ってもろくに頑張っているようには見えない。

2012年1月5日木曜日

そろそろ勝ち組であることを確定させなければならない

人生における勝ちをできるだけ早く確定させることは重要である。それから先は純粋に遊びの世界で生きられるからだ。例えば、将棋でプロ四段になれば、それから先はほぼ将棋の世界を純粋に追求するだけの人生を送ることが許される。リーマン予想の証明をするのもそうだ。
遊ぶだけなら、金が十億円くらいあればいい。親が資産家の家に生まれれば、生まれながらに勝ち組だし、それがなくても自力で、十億円稼げばよい。この金額は三億円まで減らすことが出来るだろうけど。
話が変わるが、N中に入ろうが、東大に入ろうが勝ち組が確定するわけではないことを見落としている人が多いように思う。明らかにコストパーフォーマン悪すぎだろ。それだけの頭と努力する力があれば、もっと直接的に勝ち組を確定させる努力がいる。
国公立医学部に入れば確定したように見えるけれども、その後も数十年に渡って、激務をこなす必要がある。医師免許を取得できれば、ある種の保健は獲得できるけれども、医者がそこまで幸せな職業とは思わないので、国公立医学部進学には疑問が残る。
勝ち組になるためのレールを走ることは悪いことではないが、レールから外れた部分で、潜在的に勝てうるネタを持ちたい。

IQテストをやってみたら130だった

ネットであったIQテスト(といっても簡単なパズルを解くだけの問題)をやってみたらIQ130だった。どれくらいの信ぴょう性のあるテストか知らないが、パズルを解く能力が平均よりだいぶ高かったということだろう。時間内に解けない問題が多々あったことが残念だった。子供のころなら、全問正解出来るような奴が周りにうじゃうじゃいるような雰囲気だった時のことを思い出すと、だいぶ劣化したと感じる。IQと努力と根性だけで社会で通用した、子供時代はよかったが、今どなっては別の能力が必要とされるのだから、あまり結果は気にしないようにしなければな。
小三の時はかったらIQ140だった。自分とは別のテスト受けたやつがいて、IQ149だったが、テンションがおかしかったのを覚えている。全くと言っていいほど勉強しないのに、直前の詰め込みで、それなりの点数を取っていた。いろいろチートな奴だった。
年齢と主に直観やひらめきが鈍っていくのは寂しいものだが、そういうモノとして受け入れざるを得ないな。
そういえば、知り合いが論理的思考力の積み重ねの上にひらめきというものがあるとっていた。論理=左脳、ひらめき=右脳というように全く違う能力ととらえられがちだが、そいつ曰く同系統の能力らしい。自分なりに検証して見たが、なるほどと思わなくもない。純粋に論理的に突き詰めて考えていけば、いわゆる「ひらめき」が量産できる気はなんとなくした。しっかり論理的に考えていくことが、「ひらめき」の妨げにならないのではないか、という仮説は自分にとってはうれしい発見である。あやふな概念でしかなかったひらめき問うものを、人工的に量産できるのだから、質の良いアイデアを多量に生産するための方法論が身につけられる可能性があるということは、かなり大きな希望となる。しばらくは、理詰めの延長にひらめきを量産できないか?ということをさらに検証していきたい。

2012年1月4日水曜日

高校受験組のバックグラウンドの広さには感心する

中学入試で中高一貫の進学校に入ってくる人間と、中学校の時は無名の学校で高校入試で名門私立に入る人間は人種が違う。中学入試組は基本的に純粋培養だが、高校入試組は、普通の人々の価値観をよく知っている。もちろんそのことが、ある程度能力を限定している事が多いのも確かだ。例えば、大学入学した直後で量子力学に詳しいタイプの人々は大体中学受験組が多いだろう。
ただ、勉強以外のこととなると、高校入試組の方が圧倒的な能力を発揮する、というよりも、中学入試組が極端に勉強(特に受験勉強)以外のことが出来ない。同じ勉強でも英語がペラペラなのは、中学入試組にはかえって、少なかったりする。(リスニングやスピーキングは大学入試ではほとんど必要ない)

小学校教育において作文の授業は必要か?

小学校の頃は作文が極端に苦手だった。授業中に書けないのはもちろんのこと、放課後何時間居残りさせられようが、一行たりとも書けないことも少なくなかった。そのような、カリキュラムを通して、作文能力が上がることはほとんどなかったように思う。理不尽な仕打ちに延々と耐え続ける能力、それに対して疑問を持たずに日常を送る能力がしっかりと身についた。お陰で、その後の人生でエラくこまることが多々あった。
大学に入ってからラノベや漫画を大量に読むようになってから要約文章を書けるようになってきた。自分の興味に基づいたインプットを大量にして初めて、文章というアウトプットが出来るようになる。そんなに文章が書けるようになることに努力や時間は必要なかった。
今ここで、文章を書いていることが小学校の教育システムよりも学校的世界観では弾圧の対象にしかならないであろうライドノベル文化の方が高度な正当性を持っていること、学校よりも自己が正しいことを如実に示している。
さらに、学校のシステムを破壊するためにも文章を書き続けていかなければならないと強く思う。

最近普通の人が、かなり頭が悪く見えるようになってきた。逆にすごく優秀な人々を当たり前だ、普通だと思えるような感覚が身についてきた。

自分にとって他者はコントロールできないもの、自分の世界の中で思い通りにできないものという意識が強かったが、最近ようやく他者を自分の制御下で語れるだけのスキルがついてきたように思う。つまり他者に攻撃の意思があるかどうか、自分に何を望んでいるかどうか?何をいえばよくて、何を言わない方がいいか。人と過ごす時にどこまで自分のことをやることが許されるか。これらのことをあまり意識しすぎずにできるようになった。スペックを外部の情報にとられすぎないことで、周りに人がいる空間でも一定のパフォーマンスを発揮できるようになってきた。
だが、まだまだ、一人で作業する時に比べるとパフォーマンスが下がりすぎるので、もっと工夫か必要だろうと思う。

ドラえもんに見られる日常空間に押し込まれてどこにもい開かれない抑圧的な空間に違和感を感じる

昔はドラえもんに夢中になったことがあった。
だが、最近はドラえもんの内容を思い出すと
どこにも辿りつかない雰囲気がある。小学生時代にありがちな、家庭と学校、友人関係、の全てにおいて極端に抑圧される環境にある。特に中学入試がないというのが、かなりきつい。
我々の子供時代、中学入試というのは唯一の開放への希望であった。それの希望に足して全てを捧げるだけの必然性があった。
もちろん、その後の人生においてその希望は全く的外れであった。
まどかマギカを見てあまり面白くなかったのは、作中における希望と、その代償の構造はあまりにもありきたり過ぎて特に見るべきものがないように感じられからだろう。、まいちな現実の中に希望をぶら下げられるとホイホイ「契約」してしまうというのは、あまりにもベタに感じられたからだろうと思う。まどマギに含まれるテーマは、他の同世代の大多数の人間と比べ、自分の中であまりにもはっきりとした形で存在していたので、そういった問題に対する
処理の仕方がわかりやすいかたりで自分の中にできている。まどマギの内容がチャチに思えたのだろう。

自分が無能で、負け組で、人生終わってるのはとっくに分かっているが、それを他人に指摘されるのはつらいものがあるな。

もう人生で結果はほぼ出た。
もう俺は負け組だ。













なんて・・・いうと思ったか!
まだまだやれることはいくらでもある。

食い物を粗末にするんじゃねえ!といいつつも他のものは湯水のように無駄にする

古い価値観に染まっている人々は必要以上に食べ物を大切にする。冷静に見ると、あまりに強迫観念的・・・病的なレベルに達している・・・
お金で、あるいはモノが必ず食糧と交換できることが保障されている社会においては、個人の視点に立てば、食べ物の価値は、他の物資と同等の価値を持つはずだ。また社会全体の立場になって考えた時も、食糧を生産するこコスト、食糧を廃棄するコストは、他の物質を生産するコストやそれを無駄にした時の環境にかかる負担をはかりにかけた時、同じ次元で語ることが出来るはずだ。
先進国においては、食べ物を無駄にすることと他のモノを無駄にすることにそんなに差はない。むしろ、必要以上にに食べ物の価値を重みづけすることでさまざまなデメリットが生じてくると考えられる。簡単な例だと、残さずに無理した食べることで腹を壊せば、時間や金が無駄になるし、その人の労働時間が減ったり医療費がかかったりすることで捨てるはずだった食糧と同じかそれ以上の損失を生じることがある。
強いて、食べ物を大事にしすぎないことで、発生するデメリットがあるとすれば、食べ物が大切だとという洗脳を受けて来た人々、実際に飢餓を経験した人々の精神的損失があると思うが、上記の合理的な考えのできる人々にとっては精神的負担ではないし、むしろ非合理な考えを押しつけられることによる損失が大きい。こちら側としても、考えを押しつけるつもりはない。ただ、社会全体として考えれば、食物に過剰に反応しない方が有益だとは思うが、それでも、豚のように喚き散らすなら、もはや私はこれ以上語るべき言葉を持たない。

もし、死んでいった人間のために何もすることが出来ないならば、自分たちのためにその人たちの死を利用するしかないのではないか?

死んだ人間の人生は確定してしまう。
確定した人生に生きのこった我々が出来ることが
すくなくとも、科学的(いままでの経験をもとに論理的に考えて飛躍のない範囲内では)存在しないはずだ。
残された人間が何かできるとすれば、それは生きている人間のたまに何かをすることだけだ。主観的に考えるならば、自分自身と自分にとって利用できる周りの人間のために人の死を利用すべきた。
そういう選択枝しかない以上現実的にモノの見られる人々は人の死を自分の為に積極的に利用しようとしてくるはずだ。だから、人間の死に対し何かきれいごと「死んだひとのたまに」とか「〇〇がよろこぶか」などという発言をしてきた場合には強く警戒しなければならない。また、純朴にそういうことを言う人もいるので、そういった発言にむやみに突っ込んで反感を買うことも避けたい。そういう場面で反感を買うとその人が生きている限り反感を持たれることになるだろうから、特に気を付けなければならない。だが、必要以上にトンチンカンな理論をプッシュして、自分の思考が侵される危険性があるならば、そういった人々とは距離を置くか、距離を取るのが難しいとすれば、反感を買うのを承知の上で徹底した反論に出ざるを得ないだろう。

自分が遺書を書くとしたらこうする

ブログを始めたきっかけの一部として、知り合いの遺書を読んだことは大きいだろう。
そいつは、かなり優秀な人間だったらしいし、
いろいろなことをとことんまでやるタイプだったらしい。
遺書の文面を読んでみて、シンパシーを感じることが多かった、というよりも、これは昔の俺と全く同じじゃないかとさ得思ったほどだった。もちろん、そこまで親しかったわけではないし、深い話はほとんどと言っていいほどしなかったが。
今日死ぬとしたら、何をいい残したいだろうか?
明日死ぬとしたら、今何が出来るだろうか?
ここ数年はそれを頭の片隅に置きながら生きているが、前述の経験を経てより、強くこのことを意識するようになった。
今日死ぬ、あるいは過去のある時点で死んでいたかもしれない、ゼロになっていたかもしれないという、ところから、ボトムアップ式に積み上げて、いろいろな事が考えられるようになったので、一種の強烈なハングリー精神を持つことが出来なくなった。死んだら楽しむことが出来ないので、楽しいことを妥協せずにとことんまで追求しなければならない。年を取れば能力が落ちるのだから、自分の能力が頭打ちになったとしても絶望せずに年齢にあわせた生き方をしていく必要を感じる。
たとえゴミくずのような文章であれ、算数レベルの研究成果であれ、幼稚園のお遊戯レベルの曲しか作れなくても、すこしでも多く、少しでも高いレベルのアウトプットというか、自分の考えてきたこと取り組んできたことの痕跡を残しておかなければならないと感じる。
もう、自分には時間があまり残されていないだろう。
創造性や思考力をMAXに発揮できる時期はもう残り数年かもしれない。その間に、成果を出せなければ、残りの人生は今まで以上にぱっとしないまま終わるだろうし、それが経済的な成功と結び付かなければ、その日生きることすら危うくなるかもしれない。たとえ生きることを強く望んだとしても外的要因によって人生を強制終了させられるかもしれない。ここまで、考えた時に、特に経済面では何不自由のない生活を送っていたにも関わらず自殺することを選んだ知人、友人たちに対して強い憤りを感じるような二なる。人生なめんじゃねえよと。お前みたいなやつが死ねばいいのだ(もう死んでしまったけれど)

自分を潰そうとする人間との戦いの中で失った時間は大きい。

子供の頃は、自分を潰そうとする人間ばかりだった。
そういった人間に潰されないようにするにはどこまでも優秀な人間になるしかなかった。
能力を上げていく過程で、自分を攻撃してきた人間が強力な味方になってくれたこともあったし、
より上のステージに上がることで、
優秀で人間的にも優れた友人と多く深い付き合いをできるようになった。
そのことには感謝しなければならないと思う。
それでも、周りの人間が自分を押し潰した時の記憶は忘れられないし、少しでも自分が無能であったり、隙があれば社会は自分を容赦なく潰しに来るだろうという可能性を排除できない。多かれ少なから日々の日常の多くの時間を潰しに来る外的への対策の為の作戦を練ったり必要な能力を身につけるための訓練に割かれてしまう。
一方で自分の外の存在に対してそこまでの対抗意識を抱かずに自分の好きな事をやって来た人間が、いわゆるエリート層の中にもそれなりにいる。そういう人たちは、往々にして尊敬できるし、能力的にも無駄な戦いにエネルギーを消費しなかった分、高いものを持っている人々が多い。時には天才的な能力を持っている人間もいる。周りにそういう人がいることは素晴らしいことだし、自分もそういう人から色々な事を吸収でき、隣に並んで歩き、その先を歩こうと努力できる権利を持つことができるとしたら(たとえそういった人々に追いつくことが一生できないとしても)それはとても嬉しいことだと思われる。
自分が人間らしい日常を送る権利を得るための戦いの、多くの時間と能力を使ってしまった。
これからは日々を少しでも楽しく生きるために、自分の能力と時間を使っていきたい。
いつの日か自分の中に精神的余裕が出来て人の為に何かが出来る時が来るだろうか?その答えはまだ見えない。
たとえ、自分が持つ問題に答えが出なくても、それが、自分の能力を向上させ、自分の人生をよりよくするものであれば、もっと他人の為になることを積極的に関わっていくべきなのかもしれないな。
全ての準備が出来てから何かを始めるよりも、未完成でもどんどんアウトプットしていけばいいのは割といろいろな事に成り立つし、このことに関しても正しいのかもしれない。

知的マッチョな人々は浅いところでのたうちまわっているにすぎない。

どうしても、気合いや根性で知的能力を上げにかかっているような人々というものは、浅いところをループしているにすぎない。量はこなせてるのだが、いつまでたってもそれが、質に転化していかない。

2012年1月3日火曜日

十代の頃に何も生産性のあることが出来ないのはかなりの痛手だ。

中一で、高校物理と数ⅢCまでカバー(少なくとも内容を自分なりに理解)して、研究を始めるくらいじゃないと話にならない。もう十五歳くらいになったろどんどん発見してアウトプットしていくくらいじゃないとどうにもならん。
高校生や大学生くらいの年齢でで発表(論文投稿したり、研究施設で)就職できるようにしないと優れた才能はのびてこない。
先生について勉強するにしても、萎縮させられるような相手じゃだめだ。どんどん発想を出していく過程にブレーキをかけられると、大きなビハインドになっていくだろう。

2012年1月1日日曜日

自滅する人々、取り返しのつかないレベルまで自滅していった人々、自滅傾向が強い人物との決別

自滅していく人間は多い。
究極的な自滅として自殺があるが、
自殺する人数が多すぎる。極限状態に追い込まれて、自殺することに納得いくケースもあるが、むしろ、常人より多面的な尺度で測っても恵まれているタイプの人間が自殺するケースが多いように思う。(そういうケースに対してもある程度説得力のある理由をでっち上げることは可能だが、あまりにも馬鹿ばかしいのでここでは書かない。いずれ語る機会があるかもしれないが)
より現実的な問題として、世の中のほとんど全ての人々が多かれ少なかれ自滅傾向を持っているものである。
経験不足とあいまいな論理的思考力によって自滅傾向を肥大化させている人物がたまにいる。そういうタイプの人間と関わると、こちらも引きずられて自滅傾向を肥大化させかねないので、自滅傾向のある人物とは徹底的に距離を置き、自滅傾向の少なく、かつ生産的な仕事のできる人と関わるべきだろう。自滅傾向の強い人間と話すくらいなら、人とあわない方がいい。もし、他人が自滅傾向のある話をしようものなら、すぐにピシャリというが、それとなく、場合によっては露骨に話題を変えるという手段に訴えた方がいい。自滅傾向に引きずられることを防止するだけでなく、不快で迷惑だから自滅傾向を強化し、生産性を低下させる人間に対する強烈なメッセージになりうる。(そういった人間はたいていの場合、相手の状況に対して敏感で繊細な心を持っているので、それだけで二度と暗い話はする気が失せるだろう。)それでも重い話を続けるようなら、社会から排除されても仕方がないと思う。少なくとも社会から排除されて当然だという考えを持っていかないと、生産的であることを目的とする組織からは無価値な人間だと判断されるだろうし、なんの生産性のない集団からですら、「楽しくない」という理由で排除されうる
ネクラ人間は強制収容所に送るくらいの措置が必要だろう。

親戚と集まった時のことを話そうか

親戚との集まりで、珍しく積極的に発言するようにしてみた。
相手の求めてるものを読み切った上で、相手に対して心地よく入っていく範囲内でかつ自分の言いたいことを、的確に言葉を選び、絶妙なタイミングで話す。
いままで、コミュニケーションにおいてこのことを強く意識してきたが、ある程度の経験値を得て来たので、あまり意識を強く持たず、感覚に頼って面白くなるように心がけた。昔は、自然に話したら全くトンチンカンになったので、その反省から徹底して考えるという方針を取らざるを得なかったが、それは自分の人格において、あるいは人間の脳の仕組みにとって自然な発話極めて無理を強いるものであったので、その負担を下げ、少しずつ「何も考えずに」話すようにする。そう、自転車に乗りたての人間が補助輪をゆっくりとはずす感じだ。
考えずにしゃべっても失敗しないという経験に裏打ちされた強固な自信が必要だったが、 その自信からおおきく外れない程度に飛躍した話し方に加え、さらなる高いレベルの自信を獲得するための経験値を稼ぐために、許容される範囲であえて失敗に近い踏み込んだ発言をする、失敗できる範囲の見極め、という目的意識
これらのことを踏まえた上で親戚との会談に挑んでみた。
相手は、こちらの発言に関心してくれているように見えたが、相手は自分よりはるかに年上の人間だったことを考えると、果たしてどこまで本心からうなずいてくれているのかは、あるいは反発されていないかは、疑問の余地が残るものであったし、相手の反応を注意深く観察していたが、現時点での自分の読みとり能力では、否定的なニュアンスを見つけることが出来なかった。否定的な印象を持ちながらも否定的なニュアンスを相手に悟られないスキルは普段から意識的に身につけているので、その効果の大きさを常々認識しているし、もし相手が自分よりも数十年以上長い人生経験を通してそれをより高次なレベルまで身につけているのだとすれば、それは果てしなく恐ろしいことだと言わざるを得ない。自分の認識できる世界が主観的な意味で世界の全てであるとするならば、そこに観測不可能なブラックボックスが存在していて、そこに自ら働きかける必要に迫られる(今回の場合は実験であり、必ずしも必要に迫られたわけではない。いや、将来に対する漠然とした(ボンヤリ=ダザイ(1909~1948)のことはどうでもいいが)からそれに対処するための布石として必要だった。(こうは書いたけれども、一応、自分の被害妄想的な傾向による思い込みかもしれないという思考の余白を残すことで別の選択肢があったかもしれないと考えることで、あるいはこれから先に視野の狭さによる不合理な選択を取り、それが避けようがなく必然であったと思い込んでしまうことに対するけん制としておく。「詰将棋や数学とは違って現実空間に属する判断のほぼすべて(たぶん無限濃度)、は論理的に一意定まることはないので、厳密には避けられない判断というものは存在しない」ということを、わざわざこんなこと言うまでもないし、今までも繰り返し指摘してきたことを分かりながらも、あまりにもここら辺を勘違いしている人が多いように思うので、あえて指摘しておく))
ということはなかなか大きな恐怖である。

知識人を粉砕せよ!

このブログは知識人(その中でも頭でっかちで結果を出せない人間)に対する強い反発から書かれている部分も大きい。
このブログを書くにあたって知識人が好んで書きそうな文体を一種のパロディして書いているにすぎない。つまりは単なる遊び、あるいは文章というツールを通した演技力の向上のための試行錯誤という側面で書いている。
自分で疑問に思うことでもあえて断言する形で書いたり論理的に大きな誤謬を含んでいてもそれを認識しながらGOサインを出して書いていることがほとんどである。
これは、現実空間において相互作用を起こすための言葉を発する場合とは異なり特定の人物には読まれない、少なくとも読まれることによって自分が何かを得ることを目的にはしていないからだ。(純粋に書くことによって何かが得られると考えられるし、ネット空間上に放出することで、漠然と世界に開かれていることを意識することで文章の内容に一定の緊張感を出し、書くモチベーションを上げること。つまり程良いテンションを保つツールとしてブログがいいと判断したのである。あと、パソコンが壊れてもデーターが失われないという理由、アクセスのしやすさ(WORDを使うよりもブラウザの方が開くのが速く保存するのにかかる手間も少ない。これが文章を書くことの敷居を一気に引き下げる。))
()が長くなってしまったが、普段相手に情報を伝えることを目的として文章を書いたり、会話をしたりするときには、
このブログのように下手に難しい表現を使うことはせず、キャッチーで本質をつく短くて簡単な言葉を選んで、内容も相手のレベルに応じて引き下げる必要に迫られることも多い(というか人と会話する場合ほとんどそうである。(お分かりであろうが、知的能力の差ではなく単に興味が人によって異なるから自分の興味のある分野で相手に興味がない分野であれば会話のレベルが異なるのは当然でありそれは頭の良さとは関係ないだろうという突っ込みを想定しつつそれをあえて無視して文章を書いているという(それでもここで書く)というパラドキシカルな手法を用いることで自分が他の文章でも同じような事を考えて書いているということをここに明示しておく))。(「俗にいう小学生でもわかるように説明しろ」ということである)これは、単位時間に相手に伝わる情報量、質を最大化することが目的である。こちら側が話した量、言い回し、内容のレベルが大切なのではなく、相手にできるだけ多くを伝えるという結果を手に入れることが重要なのである。もっと主観的な立場(自分を中心としたモノの見方)たてば、相手が自分にとって最も都合のよい行動をしてくれるように誘導するために、ほとんどの場合自分の本当に伝えたい内容からは遥かにレベルを落として、あるいは、表現を当たり障りのない(なんの面白味もなく、全く知的能力の本質的に価値のある部分、(俗にいう「深さ」))言葉を選ぶことが重要だということになろう。
結論から言うと、普段はもっと分かりやすく親しみやすい言葉を発しているので、この文章は、筆者の本来のキャラとは異なるということをここに但しがき、というか「本作品は全てフィクションであり、現存する登場人物、団体とは一切関係ありません」的な、あるいは「良い子はマネをしないでね」的な、裏では責任逃れを意図しつつも読者に親切なように装った書き方をしてこのブログの隠れた注意書きという形で残しておこうとするものである。

バランス感覚の極限のとしての美しさ

美しさを追求することは今までは少なく、
むしろ、美的感学、芸術性に対しては強い反発を覚えていた。
今までは、努力と根性で到達可能なレベルの限界を超えるために、効率性、合理性、論理的思考力、結果にこだわることを徹底してきた。一通りそれらは習得できた(少なくとも習得のための方法論は出尽くした)と思われるので、頭打ちを避け次のステップに進むための新たなコンセプトが必要だろうと強く感じるようになった。そのための橋渡しとしてキーになるのはアウトプット至上主義の内容だろうと思う。合理性をを煮詰めた結果でてくるアウトプット至上主義について、アウトプットの量を増やすことに重点を置いていたところから、アウトプットの質に重点を置くところにシフトしていく。そこで「美しさ」がカギになるのではないかと考えられる。美しさを追求して得られる繊細なバランス感覚が、現実における言動も含めた広い意味でのアウトプットの質を一気に押し上げる原動力となるだろうと予想される。この予想を証明するための試行錯誤をこれから行っていく。